遺書、もしくは 足あと。

カノウイノリの独白です。重たい感じですみません。

昨年5月の下書きよりw

また年イチ更新かよ、と思ってたら2年空いてたのに驚きつつ、下書きを発見した次第。

 

以下そのまま引用↓↓↓

 

またも間が空き、今年はGWも過ぎて。

 

いちおう言い訳めいた事情がなくもなし、ではあるけれど、直近にして昨年のポスト同様、「わざわざ書くほどのことがない」という。

 

ありすぎるっちゃありすぎるけど、またもや「よりレアなカード」が揃い過ぎて、ますます色々特定の網が狭まるなぁと。

 

それだけ面白おかしい人生送ってるとも言えるけど、そんな濃厚な旨味、宙に放っても、人寄せする気もないから何の役にも立たんし。

 

ただこの「空白期間」に、まるで知らなかったものに出会った、というよりは、どこかで何か、その糸口に触れてたことが、よりわかりやすく自分の眼前に立ち現れた、というような体験をいろいろと味わったような気はする。

 

別に総決算モードになるほど人生終盤とも思ってないけど(たぶんずっとそんなことは思えないだろうし、逆にいつもそうかもしれないとも思ってる、とも言えはする。ただ「わからん」だけである)、これまで拾ってきたり何なら靴底にくっついてきたりした、いろんなピースが「何かのカケラ」なのやもしれん、と思えてきたような気はする。

 

明確に、ここに壺が埋まってる!とわかって掘り返す作業は、ゴールである最終形がわかってるから進み具合がわかって、それが脇目も振らず作業に没頭できる効果を産むのやもしれんけど、自分にとっては、答えはわかってて、その過程は「誰かがやればいい作業」でしかないことにはほとんど興味を持てない。

 

厳密に言えば、興味の持てないことはそう映る、の方が実態に近いけれど。

 

むしろ、壺なのか皿なのか、作り損ねを割ったカケラでしかないのか、「わからん何か」が「ただここにある」という状態がまずあって、何やらいろいろ集まってきたら、「あ!これ壺ちゃう?」みたいに「見えてくる」方がずっとオモロい、と思ってしまう。

 

そういや先日たまたま、象の骨が出てきてコレ何や?言うてるうちに組み方間違えて龍っぽい頭こさえて「龍、おるんや!」てネッシー的なことになってもた、って史実が展示してある博物館の中継見たけどw

 

答えが分かりきってたとしたらそんなスカタンは誰も起こさんわけで。

自分としては、答えが見えたと思ったら全然明後日の方向やった、って笑い話が産生される方がずっと人間らしいやろ、と思えるんで、自分のこの一年あまりも、象を龍と勘違いしてしまうリスクを孕みながら、それでもちょっとずつ、それぞれがバラバラなものでなく、何なら全てが「ひとつの何かを成す構成要素らしい」ってことが、いよいよ目に見えてきた、てな感を覚えるための検証期間の始まりだったようにも思える。

 

これは始まり、あるいは新たなフェーズに入ったという状態で、別に今すぐに完成するわけでもないと思うので、拾うたびに、あるいは集まった欠片に気付かされるんやろうし、そうあったらええな、と思っている。

 

↑↑↑以上、引用終わり

 

改めて読んで、「預言者か」てなってるw

実際、“始まり”でしかなかったな、と。

 

そのココロは、また別のエントリーとして。

年イチ更新かよw 状態のワケ。

そしてまた確定申告の季節。

やってますよ。

もーちょいセルフメディケーション税制対象レシート隠し持ってたんでねーかと思って粘ってるけどw

 

それはさておき。

なんで1年放置したか、と。

いちおうこの間、大人の事情も絡みつつ、転職なんぞしてみたのですが。

 

いやー。書けねーな、と、

ネタにはこと欠かないけど、あえて文字に残すものにならんというか。

まぁあとはコミュニティがちびっちゃすぎて、ディテール詰めてくと特定されすぎるから、というのもあったけど。

 

それ以上に、「なんちゃって合理」で動く世界を初めて見た、という驚嘆で、私なんぞが何を述べてよいのやら、てか、有り体に言えば「ぽかーん」としっぱなしだった、に近い。

 

まぁこちら、そろそろ年季が明けるので退場つかまつるのだけれど、今のところ「しばらく塩漬けにしてからでないと、いい味出ねーな」的食えなさ具合ゆえ、このまま寝かしとくんだろうなと。

 

少なくとも今、自分の中で言葉にできるとすれば、ものごとにはフェーズってもんがあって、あるフェーズから次のフェーズに移るための要件、というのは、もしかしたら、もうちょっと厳密に、とか、全体を明らかにできるのかもしれんな、と。

 

もちろんそーゆーことを「わかってやってる」人が語ってたり並べてくれてる話はいくらでもあるんだけれど。

 

今そんなことには正直興味がない。

いや、別にそれはそれで面白いし、役に立つだろうとは思うし、「わかってる」という共通認識の上に取れるコミュニケーションはそりゃきっと盛り上がりもするのだよ、ある程度は。

 

しかし、である。

それは「わかってる同士で楽しくよろしくやること」でしかなくて。

まぁ広げて「現時点でわかってはないけどわかろうとしたい」層あたりまではカバーできるのだろう。

そこである程度の商圏にはなるし、それはシビアな中身含みであっても、まあ真っ当に平和にやれるんだと思う。

 

しかし(ふたたび)、である。

それは別に何も解決しとらんな、と。

街頭演説してたら人が群がって、そこでわかるわかるー!と言うことが「なんじゃそら」層へのマウントにも働き、その心地よさでつながる世界なら、クッソ狭だな、と。

 

そんなことにまるで興味のない、あるいは逆にそれを小バカにしてるくらいの世界が、確実に存在しているのだ。

 

でも、その2つの世界は分断している。

何なら互いに分断とも思っていない。

元から断絶していて、互いに「ないもの」扱い、今、視界に入ったのにものすごいステップで避けたな!みたいなことをやり続けている。

おそらく、互いの妙なプライドで。

 

相手を否定することで確保される存在。

それってどうよ?と思ってしまう。

尤も、ご当人達は相手を「ないもの」としてるわけなので、否定の自覚すらないやもしれんのだけど。

 

まるで興味のない人に届くアプローチで、ちゃんと目に見える。

そんな地図や見取り図を目にしたいし描きたいと思う。別に一人で、ではなく。

 

そのためのインプットなりトライ&エラーなりに、この1年の「塩漬け」は役に立つ。絶対とは言わんが、九分九厘。

 

そうなれば、今はネタにもならんけど、形を変えて、「熟成なんちゃら」として卸せるようになるのかもしれんな、と。

 

それならそれで、激烈なしょっぱさもまた妙味、である。

日光の三猿にはなれないけれど。

今年は初のe-Tax利用で、自分史上最ラクの確定申告が終了した。

お試し程度の気分で入力したら「あら還付♪」てな感じでそのまま前倒し申告。

これで例年より相当早くに振り込まれるらしいから、有難い限りである。

 

「最ラク」なのは、e-Taxが諸々の添付書類が省略できて、印刷も郵送・持参も不要なのもあるけど、一番の要因は、ID・PW方式で利用申請手続きしたから。

 

どうにかしてマイナンバーカード普及させたいお国の手先は「I pass方式は暫定」って言ってるけど、その割に正規の(マイナンバーカード+カードリーダライタ方式の)方が、いろいろシステム的に追っついてないし、なんでその正規の方式ありきなのか、税務署職員もわからんらしい(手続き時の証言)。

 

申告者への利便性というより、本来方式の開発遅延をどーにかする落としどころ=時間稼ぎが「開発工程的に負荷の少ない暫定方式」なんじゃねーかと訝ってるけど、まぁきっとエンジニアは頑張ってる、と思う。

 

真相はともかく、私はラクできたので今回はよしとする。

そしてこのまま「暫定」の断りが消えることを願う。

 

閑話休題

タスク処理において「実作業者がラク」は結構な正義だと思ってる。それがミスやロスを防ぐから。


そこに沽券やプライドや累積投資の無駄論とかいらんでしょ。その前にソロバン弾いとけって話で。

 

日本の生産性の低さは、稼働してない高給取りとやっつけPM(別にシステム関連に限らず全てのプロジェクトマネジメントね)が、累々たる屍の山を方々に築いてるから…と言われても不思議はない程度にはテキトーだと思っている。

 

それは別にスピード命のスタートアップとかベンチャーとか称される集団が、実のところ投資回収を急ぐ/急がされることで見切り発車を乱発してるのを「トライアル」やら「テスト」やらの名の下に大手振っちゃってる、とかも含まれると思っている。

もちろん昼行灯の人々よりは確かに「動いてる」とは思うけど、生産性が高いかといえばまた別問題な気がする。

 

世間に顔と名とオピニオンを売ることも生産のうち、ってことならアレですけど、それが売上や利益を生んでるのかは、スナップショットでは判断しきれんしね。

実績に対してそういう余禄がついてくるまでは、むしろその活動は営業経費と言って差し支えないと思われる。

 

だからキーマン消えたら膿の露天掘りですか?みたいな散々な業績や不祥事を叩き出したりするわけで。別にキーマンのチカラじゃなく話題バブルだった、ってことでしょ。

キーマンのチカラで現場の足腰しっかりさせてりゃ、そこそこ持つ屋台骨は組んでるでしょうに。

 

とはいえ「生産性」ってワードがもうなんかちょっとねぇ、とも思う。

何をもって「生産」なのかと。

 

最後は誰もが同じ尺度で見れる「カネ」のモノサシをあてがうんだとしても。

やっぱり時間のモノサシは会計年度単位とか、それを細切れに見せたスナップショットに過ぎなくて。

 

動きのあるものをどっかでパツンと切り取っても、その「時間の尺」におさまらんものごとと、カネに化けない値打ちは結局炙り出せないからね。

 

その尺度におさまらん人々、ものごとからもいろいろと学んできた身からすれば、そりゃ今さら測れるモノだけ見ろと言われても…である。

 

見ちゃったもんを見てないとは言えない。

 

でもなぁ。この尺を自在にあてがって見られる人々の「瞬間盲目芸」みたいなあのスイッチの入り方はやっぱりよくわからんし、なりたいとも思わない。

別にビジネスのカネだけ考えて生きてきたわけでもなかろうに。

 

だからって「カネなんて不浄」扱いする人々も、尺度は違えど不自然なことには変わりなく。

 

いちおうヒトと、その棲息域に関わる諸々を滅ぼさない前提で活動してるんなら、ヒトの自然な営みの中に答えがあるの、もうちょっと信用してもええんちゃうかなぁ、と思うんやけど、口でそう語って(「騙って」とするべきか)、頭は実質ソロバンだけ、自分を偽ってることすら無自覚、みたいな風景にはよく遭遇するので、どう接点持てばいいのやら、である。

 

いちおう、一人ひとりのヒトとして接してくと、何となく「見ないようにしてる何か」の存在を感じる時はある。

けど、私だけに見えてても意味ないからね。ご本人が見ようとしない限り、存在してもそこには「ない」わけで。

 

まぁ自分とて同じゆえ、こーゆーのを綴りつつも「これはバイアスかかっとるわー」と半分思ってはいて。だから発掘と現場検証しに行くんだし。

 

まぁ自らに希望を持つためにも、接触を諦めるな、ってことかなぁと。

絶望しきるまでは希望。

 

まぁそれも、成功するまでやめない、ってどっかのビジネスオーナーやら研究者やらのメンタリティと一緒っちゃあ一緒か。

 

なら「それが何でどこか」はともかく、接点も合意点もあると、今のところは信じるとする…ほかになし、である。

神はディテールに宿り、ボロは日々に露出する。

ユーザーとして接していようが労働者として接していようが、基本的に企業と何らかの接点を持てば、その企業の人格的なものが透けて見えることは結構ある。

 

つまりは「ブランド」とも重なるわけだが、ブランディングも外面だけじゃいけません、と、インナーブランディングの重要性が説かれ始めてもう随分経つ。

 

カネの観点でも、古くはメセナCSR活動といった「聞こえのいい部分」だけ頑張って喧伝すれば済んでいたのが、より実質的に本業の姿勢が問われるESG投資の流れなんかもここに当てはまると思う。

 

これを自身の個人的な感覚に置き換えると、別に求職中の浪人生活をしてなくても「正規雇用で禄を食むのが恥ずかしい企業」はユーザーとしても支持したくないし、利用も極力抑えたい、やむを得ない場合も「割り切ったお付き合い」に留めたい残念企業、となる。

 

そして「残念企業」は、別に直接接点を持った現場に限らず、だいたい他にも珍妙な所が(一ユーザー、一労働者が取れる情報の範疇ですら)散見される。

 

まぁそんな所は淘汰されろ、と思ってるから、状況が許せば離脱するに限るが、最近、時間差でやって来る「残念波」にこの感を新たにした。

 

コトは確定申告である。

サラリーマンやってても、いつの頃からか、主に還付のために毎年申告してはいたが、浪人生活の単発ワークなんざ入れたら当然必要になる。

 

各社の源泉徴収票が揃うわけだが、普通同じ基準で出されていると思うだろうが、単発ワークからは源泉徴収しない企業もあるし(要は給与の乙欄になる部分には手をかけないということだ)、徴収されてるからってそのまま受け取ってよい、ということもない。

いや、普通はよい「はず」だが。

 

とある(離脱させて頂いた)企業の源泉徴収票を受け取り(もちろん黙って送られてくるなんてこともない。自分で手配して引き取りに行く)、まじまじと眺めて気がついた。

 

非課税の交通費まで「支払金額」に含めとる。

 

え?月に10万も15万も(=課税対象になるほどの)交通費払って雇ってる人いんの?そんなわけないっしょ。最低賃金に近い時給で。

なんでこんなシステム組んだ?

それとも経理が物知らずなのか?

 

ほんとに恥ずかしいってこういうことだな。ひでぇな、と思うと同時に、あれ?これ、去年も同じだったのか、と気がついた。

 

つまりは一昨年分の申告も同様だったわけで。当時も変やなぁとは思っていたが気がついていなかった。(今ほどヒマじゃなかったし)

そしてこのシステム、確か去年からリリースされたやつだった。

 

去年からほぼ全員分間違っとるやん。

そして確定申告した人は須く余分の税金取られとるやん。

 

…とここで、残念企業の基準をふと、国税局にも当てはめる。

この人々は、自ら「多く払い過ぎてますよ」と言わないばかりか、マトモに払ってる人(個人事業主とか中小企業とか)の所にまでイチャモンつけて税務調査入っては、何にも出ないと理屈の通らない悔し紛れの暴言吐き捨てて帰るんだった。

 

あぁ…、確かに恥ずかしいと思ったな、学生バイトの頃に。まぁごく近所でまとまった勤務ができる春休みバイトやから来てるけど…と。

思えば地元企業との癒着かと思えるようなお土産が、申告最終日にはバイトにも配られたりしていた。逆にそれを購入していたとすれば国民の血税を何に使っとんねん、という話で。

あと「仕事を見られてる」という観点からしても、管轄の納税者を雇い入れてるって感覚が完全に欠落していると思われる。まぁやってくるのが学生と主婦ならそうなるんかもしれんが。

職員の娘さんとたまたま同じセクションにいたからだったと思うけど、飲み会に誘われて一回行った時にも、学歴だけで人を評価する、明らかに仕事できそうにないゲスなおっさん、おったなぁ、とか。

 

ここまで残念な感じはしばらく接してなかったのでちょっと忘れかけてたが、久々に記憶が蘇った。

最近、単発ワークの現場で学生バイトと接することもあるが、世間一般で言う高学歴の子が来ていることも多い。

ゆえに「この企業は就職先として選ばんな、って現場や派遣元、あるよね?」と話すことは多い。

もちろん大人同士でもそういう話はするけど、この辺の話がすんなり通るか否かは「どう社会を見てきたか」「どうワーク(仕事に限らず学びや経験)に取り組んできたか」によるな、とも感じる。

 

まぁそれは、普通に企業の一担当者と接してても一緒のことで、話題により視座の高さ視野の広さの違いがあっても、基本的に「日々の考えと行動が、今のその人を作っている」ことに変わりはない。

 

もちろん性格(タイプ・気質)の違いによるバイアスはある。けれど、それも超える日々がある、ということは言い切れると思う。

 

それが寄せ集まってある程度大きな塊として見えているのが企業なり団体なり国家なりであって、一括りにして見ることへの弊害はあるけれど、それは対個人への眼差しと同様、完全には防げない。

ヒトが理解と記憶のために「バラバラの情報を括る」のはある種必然だから。

 

一括りにして「全てわかった気にならない」ことを心掛けるなら、その傾向を捕まえることはお門違いではなかろう。

そこに日々の営みの積み重ねを見られるならば、やっぱり積み重なった「残念」もある程度の塊として見えてきたとしても、致し方ない。

 

まぁ、よき営みにだけ接しているとわからなくなる、と思えば、この累々とした「残念」もザラッザラの磨き砂だと思うのがよかろう、というのが現時点の結論である。

なぜにカノウは「虎穴」に入る?

新年色がまるでない投稿ですが、ひとつ。

 

時々行う「虎の穴」と称している個人活動がある。

(広義の)メディア上で「一家言ある」らしき方の、自分とは到底相容れないオピニオンを拝聴(読)する、というもの。

 

味わうポイントは、まずは自分との差。
「いかに違うか」より「なんで違うんやろ」探し。

 

ゆえに、その方の人となりがわかるプロフィールや写真・動画等参考に、「そのご意見の成り立ち」に合点がいく程度には掘ってみる。


大概、環境の違いを感じるし、それそれの環境に棲息する人の生態にも、多少はリアリティが湧く。

 

次の味わいポイントは、そのご意見の扱われ方。
「伝える」を生業としていた名残っちゃあそうだけど、イヤでも目に入るので。

 

その方の現実を基にした考え+検証済みの事実が揃えば、まぁ「ご本人の」真実とは言えるんだけど。

その論旨には、範囲の大小はあれど、大抵、“限定的な前提”が存在する。

しかしコレをすっ飛ばして伝えている、のが普通。

 

そこにはメディアが流通するシステム特性と、ある種の人間らしさでもある「ものぐさ加減」に突き当たる。

最初から意図されたものでなくとも、どちらも人と技術の進化の過程を経てきた産物である。

つまり、それ自体に善悪はなく、あくまで「使い方」でどちらにも転ぶ。

 

で、使い方を眺めてみると、システム特性への適合を追求すれば「(良くも悪くも)刺さってバズる」状態を目指すことになる。

 

その規模と伝播のスピードが、テクノロジーの進化で爆発的に増したことで「バズる土壌づくり」が求められ「バズることで回る経済」の構造もできている。

 

そして、クリック誘引が必要な複層構造なら「見出し化」がそのキーになる。「見出し化」自体は、情報処理とコミュニケーション上、「印象づける」ための、割と古典的な手法である。

 

それぞれは別々に進化しているに過ぎない。
その合わせ技の上に成り立ち発信される「オピニオン」が、諸々の前提をいちいち注釈していてはキリがない、とも言える。

 

けれど、その“前提すっ飛ばし”を、メディアリテラシーの名の下に受け手に委ねるってどうよ、とは、やっぱり思う。
そこは昨今の社会を論じる際に不可欠な「自己責任」にも通じるけれど。

 

ほんとに伝える側が、わかっててすっ飛ばしたり伏せてる前提なら、かつての(いや今もか)某スポーツ紙の宇宙人発見報が「いつものアレなw」と、共通認識化できる「暗黙の了解」になり得るでしょうに、と。

 

「虎の穴」活動は、身近な題材から「そのオピニオンを肯定的に受け入れる人」の存在を想像する作業でもある。

 

現にシステムが何を思ったかw わざわざ推してくるものに従って見聞きすることもあり、その情報を私のように使う人がメジャーだとは思えない。

 

発信側にいちいち説明しろとは言わんし、受け手にそこまで情報をしゃぶり尽くせとも思わんけど。


それでも、やっぱり問いは残る。

 

「ほんとに、“人は諸々前提すっ飛ばす”って、わかってます?」

 

「システム特性やボリュームやマネタイズ手法の“それぞれの都合”に従った結果、起こること(特にリスク)、認識できてます?」

 

「諸々すっ飛ばしてることに気づかなくても、声がボリューム持つと“世論”になるって知ってます?」

 

「これ、誰を幸せにしてるんですかね?」

 

これらはたぶん、「この社会の生き方」への問いなんだと思う。
もちろん、まず第一に、「そういうことを抜かしがち」だと自戒して、忘れないための問いである。

「答えくれ」には乗っかりづらい。

ビジネスシーンでの「読解力問題」、つまり「『分かりやすさ』を激烈に求めるエラそげな面々」のポジショントークに遭遇すること多々なれど、実際のところ、当の面々の思考力不足と読解力の低下を、自覚なく相手にゴリ押してるだけなんじゃねーか?問題、については、未だ仮説の域を出てはいないけれど。

 

先日も、中年世代らしき人が学生の「答えが欲しい病」みたいなのを嘆いてるポストを(押し頂いている若者世代のシェア経由で)見かけて、まぁ主張の中身はともかく「学歴等々でトップ層の学生でコレかい、と日本の若者にがっかり」してる様子がどうにもモゾモゾした。

 

この主張の是非は正直どうでもいい。

ただ、別に学生見て嘆かずとも「答えの欲しい」学歴も職歴もポジションもご自慢らしい中年以降層、山ほどいますけど?と。

そしてそういう人々が結構、社会的ヒエラルキーの上の方に乗っかって、なんだかお振るいあそばしてますけど?と。

 

ほんとにポジショントークには気をつけねば、という自戒しかないけれど、実際それに全く気がつかない人が「社会的プレゼンス」を上げてることが当たり前になってる状況に、やっぱり相変わらず居心地が悪く。

そして今、改めてビジネスの現場から距離を置いた身で、でもそのうちどこかには身を納めねばならん場所として眺めつつ、改めて、どこもかしこも大して変わらん風景よのう、と思っている。

 

まぁこれも一種のポジショントークかもしれんけど。

 

どんだけ人から答えが欲しいねん。それも「予想通りわかりやすい」ヤツな。 それ、ただの「快感のツボ探し」やん。

…とは思う。

 

「考える」プレイでも世の中渡れる程度には 雑にできてる世間ゆえ、まぁ乗っかる方がラクなことは否定しないし、何もかも、でなくても「どこかには乗っからざるを得ない」程度には凡庸な自分自身のありようも自覚していて、そこは「まーしゃーない」程度には割り切ってもいる。

 

だから、ちょっと距離を置いた現場の数々から求められる答えに素直に従って、あちらがお求めのルールに乗っかることで開ける道とかもあるかもしれんし、それに乗っからないのは自身の至らなさというか、単に意固地になってるのか何かへの執着やもしれん、とも思う。時々チラと、程度ながら。

 

それでも、なぁ、と。

 

そこまでして従う先にあるものが本当に欲しいのか、と静かに問えば、少なくとも「今は、いらん」ということになる。

 

裏を返せば、そこを拒否ってその先がハードワークになったとしても、それはそれで「まーしゃーない」程度には、まだ心身も環境的にも切羽詰まってないから、でもあり、そこまでは好き勝手やっててもいいんじゃねーか、というある種の甘えでもあるだろう。

 

ただ、やっぱり「ごちゃごちゃ考えずに言われた通り、求められてる答えを出せばラクになるよ」的メッセージをそこに読み取る自分がいる限り、どうにもスパッとこの流れに飛び込めそうにはない。

 

そのメッセージは思い込みかもしれん、と疑う程度には、自分を全面的に信用した末の「真実を見失う愚」に警戒してはいる。とはいえこの奇妙さを何も疑問に感じないまま「上澄み層」にいる人々に憧れロールモデルにしたこともなければ、羨ましいと思ったこともない。

 

それとて自分の思い込みの結果で、結局全ては自分のビリーフ、それこそが自分を制限してる、って可能性もなくはないけど、自分の胸に問うてみても、今のところはこの思い込みが外れたら「ラクになる」感もない。

 

ゆえに、この「ようこそ無判断、無抵抗の世界へ」と手招きしてるような「素直っぽさ」に流れてく空気やらムードとは友達なられへん、ごめん。という心持ちである。

 

この「友達なられへん」は、自分が新宿(特に西側)の街並みとは「友達なられへん」と同じニュアンスで、別に上っ面層の人と全く交流できない、ということを指してはいない。

友達になれるかどうかは、あくまでも個人対個人の話だから。

 

ただ「友達になられへん」街は自分にとって居心地が良くない。それをどうにかして乗り越えて、街とコミュニケーションを取るチャレンジは「する気がしない」だけである。

 

考えてることがダダ漏れして体を表してる、ってことでは西新宿も最近の渋谷の開発も、まぁ正直っちゃあ正直、素直っちゃあ素直なんだろうけど。

別にそれぞれの街の開発者も、そこを自分のフィールドに選ぶ人々も、その手の「正直さ」を意図してるわけではないだろうし、「考えがダダ漏れ」とは感じていないだろう。

そしてハード面での誠実な仕事がされていることや、ソフト面での街づくりでもちろんよい取り組みがあることも承知してはいる。

 

それでもなぁ、と。

 

そのコミュニティに入ることで見えなくなること、消し去られてしまいそうなことの方に、よっぽど「正直さ」を感じるからなぁ、と。

 

自分の心惹かれる風景は、いつも「隠しきれないノイズ」を含んでいる。

どんなにクリーンを装っても一つ路地を入れば猥雑な空間、そして人のしぶとい息遣いを感じる街。

「きれいごと」を鼻で笑うような、もしくは精一杯の抵抗を見せるような、あるいは生理的に忌避するような。

 

それこそ人の「人らしさ」ではないか、と思う自分を「なかったこと」にしたいとは思えない。

真に「クリーンでオープン」であることは「体裁繕う」ことでも「何も軋轢がない」ことでもない。

泥の中から蓮が咲く。その美しさの方がずっと尊い、と思う自分が確実にいる。

 

その自分を否定してまで「従順プレイ」で世渡りしたいわけじゃない。

それが少々不自由であっても、甘んじて受けるくらいの気概はあるらしい。

いや、少々ではなくかなりの不自由かもしれんのだけれど、何を今さら。

もう十分に不自由は被っているし、マインドセットやストレスレベルがちょいと違えばじゅうぶん世を儚んでいると思う。

 

それでもどうやら死にはしない。

この程度では。

 

ゆえに、この多数派のムードとは当分「友達なられへん」のやろな。が、現状ということになる。

 

別に未来永劫、とは思っていない。

ただ今のところ、友達になれるきっかけとか接点を突き詰めるほど、やる気漲ってるわけでもない、だけで。

 

さて、どうなることやら。

謝罪・解決と「心情」の、かくも複雑なカンケイ。

街頭で、とある健康被害に関するキャンペーンビラを受け取った。

初っ端に、国と企業に対する「謝れ!」という言葉が躍っている。

もちろん訴訟問題ってそういうことやから、という前提で、当然その言葉になるんやろな、は持ちつつも。

 

謝ってもらえば気の済むことなんて、実際、あるんやろか、と。

 

前にも触れたが、個人的には昔から、自分に対して「謝ってもらう」ことはどーでもええし、大っぴらな謝罪行為なんて、昨今のいじめ現場の「握手で解決」問題に近しい、「外向けのパフォーマンス」やと思っている。

むしろそれをきっかけに、心情的にはよりやるせなく、事態としてはよりこじれていってもおかしくないやろう、と。

 

第一、謝罪があろうがなかろうが「気の済まんこと」は自他ともに「ない」わけがない。

表現も欲求も人それぞれではあるけれど、もし「胸クソ悪いこと」が「謝られたらスッキリ」するほど単純だとしたら、そもそも「謝れ」と言うほどのことですらないかもしれんし。

 

最近、巷でもてはやされる各種メソッドの「ないよりマシ」効果にビビることが多い。簡単なことでも、まるでやってない「ゼロ状態」の人にはちゃんと効く、という、至極当たり前の事実なのだが、そっちではなく、それくらい「ゼロ」が蔓延ってんのか!という現実の方に寒気がする時がある、という話である。

 

これは、「謝れ」の心理にも重なるのかもしれない。それが「取り返しのつかない事態の事実解明」であったとしても同じなのかもしれぬ。

 

どうやっても覆水盆に返らず、だとしても、それでも自身にとってはどうしようもなく毎日向き合わされる現実を、「なかったこと」のように過ごす「ゼロ状態」の世界に、せめてもの楔を打ち込むための「よすが」であり「旗印」なのかなと。

 

それは問題の解決や改善を望み、それが実現されていく、という根本的かつパプリックにも役に立つ「建設的な方向」に昇華していくにはハードルが高すぎるから、という部分もあるし、逆に建設的に解決していけばいったで燃え残りのようにくすぶり続ける心情を置き去りにもできない、ということでもあるのだろう。

 

ということは、どれだけ物騒なシュプレヒコールも、その内に「どうしようもなくやるせなく、切ない何か」を宿しているんだ、という目を持ってもいいのかもしれんな、と。

 

だとすればまぁ「謝れ」と言おうが言うまいが、大概そこには、謝られても済ませようのない、かと言ってはっきりとした解決の方向も見えない何かに傾ける「心情」が、自覚の有無を問わず、もれなくあるんやろうな、と。

 

とりあえず、今の自分としては、こういう事態の当事者になったり、当事者に関わる時に忘れんようにしとこ、という「備忘録」のひとつにはなるかな、と。

 

一方、「エラい人の謝り下手」は別問題ではある。ただ、基本的には「謝れない人々自身の問題」まで抱える義理はないし、まぁ此奴らがホイホイ謝るようになったところでやっぱり「胸クソ悪い」ことには変わりないんだろう、ということは覚えといた方がええな、と思う。