遺書、もしくは 足あと。

カノウイノリの独白です。重たい感じですみません。

「答えくれ」には乗っかりづらい。

ビジネスシーンでの「読解力問題」、つまり「『分かりやすさ』を激烈に求めるエラそげな面々」のポジショントークに遭遇すること多々なれど、実際のところ、当の面々の思考力不足と読解力の低下を、自覚なく相手にゴリ押してるだけなんじゃねーか?問題、については、未だ仮説の域を出てはいないけれど。

 

先日も、中年世代らしき人が学生の「答えが欲しい病」みたいなのを嘆いてるポストを(押し頂いている若者世代のシェア経由で)見かけて、まぁ主張の中身はともかく「学歴等々でトップ層の学生でコレかい、と日本の若者にがっかり」してる様子がどうにもモゾモゾした。

 

この主張の是非は正直どうでもいい。

ただ、別に学生見て嘆かずとも「答えの欲しい」学歴も職歴もポジションもご自慢らしい中年以降層、山ほどいますけど?と。

そしてそういう人々が結構、社会的ヒエラルキーの上の方に乗っかって、なんだかお振るいあそばしてますけど?と。

 

ほんとにポジショントークには気をつけねば、という自戒しかないけれど、実際それに全く気がつかない人が「社会的プレゼンス」を上げてることが当たり前になってる状況に、やっぱり相変わらず居心地が悪く。

そして今、改めてビジネスの現場から距離を置いた身で、でもそのうちどこかには身を納めねばならん場所として眺めつつ、改めて、どこもかしこも大して変わらん風景よのう、と思っている。

 

まぁこれも一種のポジショントークかもしれんけど。

 

どんだけ人から答えが欲しいねん。それも「予想通りわかりやすい」ヤツな。 それ、ただの「快感のツボ探し」やん。

…とは思う。

 

「考える」プレイでも世の中渡れる程度には 雑にできてる世間ゆえ、まぁ乗っかる方がラクなことは否定しないし、何もかも、でなくても「どこかには乗っからざるを得ない」程度には凡庸な自分自身のありようも自覚していて、そこは「まーしゃーない」程度には割り切ってもいる。

 

だから、ちょっと距離を置いた現場の数々から求められる答えに素直に従って、あちらがお求めのルールに乗っかることで開ける道とかもあるかもしれんし、それに乗っからないのは自身の至らなさというか、単に意固地になってるのか何かへの執着やもしれん、とも思う。時々チラと、程度ながら。

 

それでも、なぁ、と。

 

そこまでして従う先にあるものが本当に欲しいのか、と静かに問えば、少なくとも「今は、いらん」ということになる。

 

裏を返せば、そこを拒否ってその先がハードワークになったとしても、それはそれで「まーしゃーない」程度には、まだ心身も環境的にも切羽詰まってないから、でもあり、そこまでは好き勝手やっててもいいんじゃねーか、というある種の甘えでもあるだろう。

 

ただ、やっぱり「ごちゃごちゃ考えずに言われた通り、求められてる答えを出せばラクになるよ」的メッセージをそこに読み取る自分がいる限り、どうにもスパッとこの流れに飛び込めそうにはない。

 

そのメッセージは思い込みかもしれん、と疑う程度には、自分を全面的に信用した末の「真実を見失う愚」に警戒してはいる。とはいえこの奇妙さを何も疑問に感じないまま「上澄み層」にいる人々に憧れロールモデルにしたこともなければ、羨ましいと思ったこともない。

 

それとて自分の思い込みの結果で、結局全ては自分のビリーフ、それこそが自分を制限してる、って可能性もなくはないけど、自分の胸に問うてみても、今のところはこの思い込みが外れたら「ラクになる」感もない。

 

ゆえに、この「ようこそ無判断、無抵抗の世界へ」と手招きしてるような「素直っぽさ」に流れてく空気やらムードとは友達なられへん、ごめん。という心持ちである。

 

この「友達なられへん」は、自分が新宿(特に西側)の街並みとは「友達なられへん」と同じニュアンスで、別に上っ面層の人と全く交流できない、ということを指してはいない。

友達になれるかどうかは、あくまでも個人対個人の話だから。

 

ただ「友達になられへん」街は自分にとって居心地が良くない。それをどうにかして乗り越えて、街とコミュニケーションを取るチャレンジは「する気がしない」だけである。

 

考えてることがダダ漏れして体を表してる、ってことでは西新宿も最近の渋谷の開発も、まぁ正直っちゃあ正直、素直っちゃあ素直なんだろうけど。

別にそれぞれの街の開発者も、そこを自分のフィールドに選ぶ人々も、その手の「正直さ」を意図してるわけではないだろうし、「考えがダダ漏れ」とは感じていないだろう。

そしてハード面での誠実な仕事がされていることや、ソフト面での街づくりでもちろんよい取り組みがあることも承知してはいる。

 

それでもなぁ、と。

 

そのコミュニティに入ることで見えなくなること、消し去られてしまいそうなことの方に、よっぽど「正直さ」を感じるからなぁ、と。

 

自分の心惹かれる風景は、いつも「隠しきれないノイズ」を含んでいる。

どんなにクリーンを装っても一つ路地を入れば猥雑な空間、そして人のしぶとい息遣いを感じる街。

「きれいごと」を鼻で笑うような、もしくは精一杯の抵抗を見せるような、あるいは生理的に忌避するような。

 

それこそ人の「人らしさ」ではないか、と思う自分を「なかったこと」にしたいとは思えない。

真に「クリーンでオープン」であることは「体裁繕う」ことでも「何も軋轢がない」ことでもない。

泥の中から蓮が咲く。その美しさの方がずっと尊い、と思う自分が確実にいる。

 

その自分を否定してまで「従順プレイ」で世渡りしたいわけじゃない。

それが少々不自由であっても、甘んじて受けるくらいの気概はあるらしい。

いや、少々ではなくかなりの不自由かもしれんのだけれど、何を今さら。

もう十分に不自由は被っているし、マインドセットやストレスレベルがちょいと違えばじゅうぶん世を儚んでいると思う。

 

それでもどうやら死にはしない。

この程度では。

 

ゆえに、この多数派のムードとは当分「友達なられへん」のやろな。が、現状ということになる。

 

別に未来永劫、とは思っていない。

ただ今のところ、友達になれるきっかけとか接点を突き詰めるほど、やる気漲ってるわけでもない、だけで。

 

さて、どうなることやら。