遺書、もしくは 足あと。

カノウイノリの独白です。重たい感じですみません。

「長いものに巻かれて」ますかー?

社会人史上最長の一斉休業がもうすぐ明ける。ほぼ何の生産的活動もせず。

「社会人として」とか「大人として」とかのもろもろの義務をスキップしすぎているが、過ぎたことは過ぎたこと。甘んじてその結果を受け入れるのみだ。(潔く、とはさすがに言わんけど)

 

そんな自堕落生活を経て本日現在、たどり着いた結論。

「今のところ、そこそこ生産的でいようとすれば、大多数が利便を享受してる仕組みに乗っからないと、結構めんどくさいものらしい」。

 

しかし。

なんだろうこの抵抗感。

 

最近、わりかし身近で「イノベーション」を(コンビニ各店舗の「恵方巻」売上ノルマ必達の切実さ、とかより遥かに薄っぺらい感じで)求める “他力の風” に、心底「けっ」となったが。

それでもわかりやすい「承認条件」なので、そこに乗っかってみようとする人々も生息するらしい、ということも同時に確認して心底驚いた。

 

あぁ、こういうことなのか。

 

いま厳然とある「仕組み」なり「要件」に乗っかるって、わりかし生きやすいのか、と。

 

物理的にも生物学的も抵抗下げるとか適応するって、まぁ言ってしまえばそういうことだから、いきものとしてのエネルギー効率や生き残り戦略としても別に不思議でもなんでもなく、むしろ真っ当かもしれない。

 

いやしかし。

そう考えてもなお、その「乗っかり」に感じるうすら寒さは何なんだろう。

 

…と思っていたら。

あぁ「長いものに巻かれる」危うさなんだ、と。

 

「やってくる波を受けてうまいこと乗りこなしてる」はずが、実はいつ「簀巻きにされて転がってって海の藻屑」となるかわかんねー気がするんだわ、これ。

 

つまり「乗り降り自由」感がないのか。

 

そんなわけないっしょ、と言えるのは、次の長いものに「乗り換えてる」感ある間だけなんやろな、と。

 

でも客観的に見て、ほんとに「乗り換えて」るのか「新たな簀巻きにされてる」かなんて区別つくんやろか?と思う。

まぁ少なくとも当の本人よりは周りの方が区別つくんかもやけど。

 

抵抗勢力として生きる、と誓うほどの覚悟はないが「そんなんおってもよかろ?別に」とは思う。

学生時代の先輩に、連絡手段が実家の電話か手紙しかないというヨーロッパの山奥住まいの人がいるが、それはもう抵抗もクソもなく、ハナから「乗っかる選択肢」自体がないんだろうと思う。

実際、日本で社会人やってる時から、特にそれで不便のある生活ではなかったようだし、その人からの連絡といえば、年賀状への返事の手紙くらいだが、他に比べてもよっぽど近況が丁寧に綴られているので私自身もコミュニケーション不全を感じたことはない。

 

でも別に世の中「乗っかる必要のある人」「乗っかる必要のない人」の二色でできているわけでもない、と思う。

 

重要度、恩恵享受度や頻度別のグラデーションもあろうし、好き嫌いや気のすすみ具合、みたいな心理的グラデーションもあろう。

 

でも「実際どんなスタンスでその仕組みやシステムに関わってるか」って、常に考えてるわけでもないんやなぁ、とも思う。

 

どれくらい考えてないかといえば、先日やたらと振り返っていた30年ちょっと前に、ぱっちり〝ものごころ〟がついてた世代であっても、当時の通信手段のみで今生きられる?と聞いたら、リアルなシミュレーションができないくらいに、だろうか。

YES or NOは思考停止状態でも即答できるかもしれないが。

 

ことの是非をどうこう言うつもりはない。ただ、自分も含めてそんなもんだろう、というだけである。

 

けれど、やっぱり多少は立ち止まって考えておきたいなぁと思う。

なんとなく自分の感覚かザワつくのを無視してまで乗っかる意味、ある?と。

メリットはあんまり考えなくても世の中の誰かがあちこちで教えてくれる。

けど、なんで乗っからにゃならんのか、は、個々人の中にしか答えがない。ほんとうは。

 

先に「クソなイノベーション風待ち」の話を挙げたが、イノベーションってヤツは、古今東西、現状をがっつり疑うとか、それを当たり前にしないってとこから始まる、と相場は決まってる。

 

ただ、別に「そっち狙い」でなくても、やっぱり明確にイノベーション方面を向いてなくても「空気があったまる」程度のうっすらとした不満や不安や疑問がある程度積み重なっているのだと思う、

 

なら、単なる意地でも食わず嫌いでもなく「おってもよかろ?」を一定数飼育しておくことも、それなりに意味があるかもしれない。

 

だって心がザワつくんだもの。

なんか手足が動かないんだもの。

 

もし、コール&レスポンスのごとく、

「長いものに巻かれてますかー?」と問いかけられて「うぇーい!」とご陽気に返せないんだとしたら。

 

その居心地悪い感じ、しばらくあっためといてもええんちゃう?…と、今は思っている。

「無意識」という名のナイフ。

久方ぶりの更新。

別に残さなきゃならんと思うことはそう多くはないので。その上本人、他者からの承認欲求もかなり薄めなのでほんとに「字」しかないという挑みっぷり。「読めるもんなら読んでみろ」になってることは重々承知、なのだけれど。

 

というわけで、これはさすがに残しとこうと久々に強く思ったので記してみる。

 

久々に「ヘトヘト」になった。疲れたのは身体のような気もするが、発端は心情的なことと、それにまつわる出来事からである。

いちおうまだ給与生活者の端くれとして生きてはいるが、今のところ無期雇用を望むに値しない環境に擦り寄る気もなく有期雇用の身で生活してはいる。別にそうでなかった時期も(大して長くはないが)あるので、身分で見えるものが違うわけではない、とは思っている。

 

実際、経験にモノ言わせる人はいるし、(良かれ悪しかれ)それが極端だと、世間のリアクションもデカイので、それが人生観とか人間観としてまかり通っていることはよくあるが、最近しみじみ、そんなことはどうでもいい気がしている。

 

たとえば、恋愛マスターみたいな扱いをされる(あるいは自称する)、恋愛経験豊富な人の経験値は、ほぼほぼ度重なる失敗の産物であるサンプル数の多さであり、自身および相手のこらえ性のなさかもしれない。別に恋愛=耐えるものだとは思っちゃいないけれど、他人と普段の人間関係よりもずいぶんと距離感詰めた関係を持つ中で、何もかもが一致すること自体、ほぼありえないわけで、遺伝子の型の話を例に取るまでもなく、その「違い」に惹かれたりするから成立するのであれば尚更、反転すれば即「違和感」にもなろう。ならそこを乗り越えるだけのストレス耐性やら、軟着陸させるスキルも必要とされるはずだけれど、それを上手いことやり遂げてる人の話は「結婚生活」カテゴリーに寄せられてしまい、恋愛カテゴリーに残ってクローズアップされるのは「累々と屍を築いた武勇伝」とそこから得られた教訓みたいな話になっていることも多い、気がする。

 

しかし。

「失敗から学んでない」からそんなに数重ねてるんじゃないのかしら。そこからの教訓と言われても、そもそも学習能力低くない?…という素朴な疑問の入る余地もないほど、世間では「経験者が語る」ことの説得力を是とする空気があるように思える。

そうじゃなきゃ、失敗事例の相談を数限りなく受けてきた的な、自身の経験がまるで顔を出さない「他人の褌」パターンかな、と。

いずれにしても「数は力」で、かつそれをウリにしてることには変わりない。それがなくても成立するのは「但しレアなブランドに限る」ではなかろうか。

 

ただ、これは別に恋愛に限った話でない。…と、最近仕事でも、それこそヘトヘトになるほど実感した。

自分も少なからず影響を受ける、とある方針決定について、自部署の責任者(ではあるが直接の当事者でない)がまるで「成す術なし」と白旗掲げながら、むしろがっつり当事者の自分に話を持ってきた。結論は受けたものの、やっぱり経緯がようわからん状態ゆえ「ちょっと待て、解せん。話の出処と直接話させろ」と、そのテーブルを設けてもらいはしたのだが。

あちらは「波風立てる」側、こちらは「波をかぶる」側、として事情説明を求めた場である、という前提で始まったはず、だった、と少なくとも思っているし、客観的にはそのはずである。

 

組織全体、また過去の歴史からしても、前代未聞とまではいかない話ではあるものの、こちらとしては決して小さくない不都合を飲まされる事柄である。しかしその方針決定の当事者から出てきたのは主に「俺すげーがんばってる、オメーに言われなくてもわかってる」アピールと、「プロセスに不足があるのはわかってる。けど、今までやってこなかったんだから仕方ねぇ」という開き直りを、極めて丁寧な雰囲気を取り繕った体の話だった。

 

え?

なにこれ?

 

確かに組織としての答えがないならオメーがそこに携わってるひとりの人としてどう考えてんのか、とは言いましたよ。

 

いや、でも。

オメーが出した波風で津波被害が出るって話だよ、これ。

言ってみたら潮力発電施設の所長が津波被害の出た(上に、まだ2次被害も出るかもと思ってる)住民に開く説明会ですよ。

 

そこで「俺もさんざん経験してきた」?

「けど指摘の件に限って言えば、前例のないことだからちゃんとできてなくても仕方ない」?

 

…はぁ?

 

誠心誠意モードで話しているらしいのだけれど、「わざわざ所長が出向いて説明してやってんだ」感が漏れ出てたり、「電力会社のトップのコメントで何もかもカバーできないとしても、いつも雑なんだよ」と言えば「あのお方はめっちゃ気にしぃな人なので、ほんとに一言一句気をつけてギリギリまで調整してる」とか、いけしゃあしゃあと抜かしてくる。

 

いや、その割にはヨタ話(主に自慢)のニュースレターの本人原稿には、人種差別とか軽く入ってましたよ?それが気にしぃのすることですかね?と問えば「それは周りが気づいて修正しなきゃいけないことですね」と。

「でも何を思って何を思わないかは当人の問題でしょ」とは言ったけど、まぁどこを「すげーがんばってる」のか、底が知れるにはじゅうぶんすぎるやり取りではあった。

 

そして予定の時間をたぶん大幅に過ぎたというか、向こうが想定しているギリギリの時間まで使って話は終わった(場の性格上、こっちが終わらせた)が、恐らくそれだけの時間と労力の割に、あちらからの話は前述の通り論点がズレたおし、こちらの話や意図は「ほぼ何も伝わらなかった」のだと思う。

 

終盤に「所長の計画について“寝耳に水”の現場係員もどうかと思うが、別に現場にコンセンサス取って進めてもないから、現場責めても「無意識すぎて」ポカーン、って話っしょ。常識的にはヒドイと思うが別に現場だけが悪いとは思ってない。その状態も含めて所長の方針の産物で、とても無関係とは思わねぇからこの場で言っとく」てなことを話したのだけれど、キモは何も伝わってないというか、受け止められるような意識を持ってないんだろうなぁ、と思った。

 

手前勝手な曲解や忖度にすり替えられつつあるけど、「相手の真意・心情を“汲み取る”」という言い回しがある。これは言い得て妙だと思う。汲み取る、という意識を問うているんだろうな、と。

 

あくまで個人的な経験に基く実感だが、基本的に、自分のエネルギーをムダ使いする羽目に陥るコミュニケーションは、ことごとく「無意識」の部分に問い掛けて答えが返ってこないことに起因する。

 

そしてそれはだいたい、相手の方が場数踏んでるように見える相手との間で起こる。シロウトの自分の意識にのぼっている程度のことなんだから、当然わかってんだろうと思ってコミュニケーションを始めるものの、実は相手が「無意識」で、「無意識」だからこそ、本人も「気づいてない」ことがわからない。当然こちらの問いの意図は汲み取れるはずもなく、でも問いには答えようと持てる専門分野の知識と経験を持ち込んでくるので「まるで無意識なんだ」と気づくまでに結構な時間と労力を要する。

 

個人に関することだけなら、まぁ少しは慣れてきたので深手を負わずに済むことも増えてはきているが、一個連隊で連座していく、その真因が組織や属性に根差している「無意識」には、なかなか太刀打ち出来ず、結果的に疲労困憊、ということしばしばである。

ただ「時間と労力」だけがムダ使いされるならまだマシで、組織単位でこれが起こると、日々現場を殺すんだな。しかも双方の当事者がまるで気づかないうちに。…と、今回、心底実感した。

 

もちろん自分が相手を疲労困憊させるリスクはある。専門バカという言葉もあるが、それ以前の「見えない当たり前」にどっぷり浸かってしまうリスクは誰にでもあって、それが閉じた世界だと「常識」としてがっちり共有されてしまい、なおのこと起こりやすい、というだけの話だと思う。

 

「無意識」が殺す相手は、他人だけではない。それは自分の性格構造や自我でも言われている話だけれど、そこまで物騒な言い方はしないから気がついていなかったし、自我は自分の行き過ぎた防衛の産物なので、なだめすかしてお休みしてもらうとか、あたたかく受け止めてあげる、という心構えを学ぶ文脈になりがちでもある。それはそれで正しいと思う。

 

けれど「無意識はナイフである」ということは、どこかでわかっておいた方がいいな、と感じた。それこそ気づかないうちに人も自分も殺してしまうことがあるものなんだと。しかも、気づくことでしか鞘に納められないかなり物騒な。

だからこそ、せめて、自分がどれだけ隠し持ってるのか、その数すらわからないが、相当数のナイフをぶら下げて日々生きているんだということぐらいは意識しておこう、という教訓を得た。

 

まぁこれも失敗の産物から来た「経験値」だろ、と言われりゃそうだけど。

「エラい人は大抵、謝り下手」問題。

具体例なんか挙げなくても、何年経っても、その時々の「あー、ヤツのことね」が想起される人が出続けるんだろう。

 

「社会的にそこそこノシてるエラい人」が「誤りを認めたり正したりできない」、「ごめんなさいもマトモに出来ない」はデフォルトか?という勢いでよくあることだ。

 

そういう人々とて、間違いなく少年少女だった時代はあり、エラくなかった頃もあったはずである。

もし優等生だったから謝ったことなんてありませんから、とでも言う面の皮の厚い御仁だとしても、誰かしらが「ごめんなさい」する場面に居合わせたことくらいはあると思うのだ。

 

なら、いつ「ああなっちゃう」のか。

 

実は、個人的には謝罪の言葉は「どうでもいい」派である。そんな派閥はないかもしれんが。

起こったことを取り消せないなら、謝罪くらいじゃ帳消しにならんし、だったらせめて未来に向かって修正して帳尻合わせてくれ、が、基本スタンス。

下手すれば謝罪がパフォーマンスって人すらいるので、口はどうにも信用ならんが、行動、それも長期にわたって実効性のある行動なら、少なくともかけたカロリーか、その成果の分だけは信用できる、と思っている。

 

で、思うに「エラい人」が上手いこと謝れないのも、結局、己の役割を履き違えたままポジションだけエラくなってふんぞり返ったまま、ロクな行動も起こさず時を浪費した結果じゃなかろうか、と。

 

この手の「謝り下手」に、立場上謝ると負け、てな思想かと思しき人をしばしば見かけるが、それこそ、勘違いもええ加減にしなはれ、と思ってしまう。

 

普通、人がエラくなるに従って「あんたはボンクラですね」と言ってくれる人は減る。だからこそ、自らの修正能力が問われるし、その前提として、自分を客観視する能力や方法を身につけてないと、遅かれ早かれ自らを担いでくれてる下々を路頭に迷わせる。

 

しかしなぁ。本来エラくなっちゃいかん人が、ある特定のポジションにおさまるだけでエラくなっちゃったりする仕組みも、ままあるのだ。それはもうあちこちに。明らかに人望なさそうで能力も微妙なのに名刺もらって肩書にびっくりする、なんてそう珍しいことでもない。

 

そして、うっかり下々がそこそこ優秀だったりすると、エラい人が「エラい人寿命」をどんどん延ばしてって、何ならそのまま一生終えたりすることさえある。

 

優秀な下々にしても、本来、実務能力の優秀さと、やってることの真っ当さは、ある程度は両輪で回ってきただろうに、「エラくなる」「エラくいられる」仕組み自体がへなちょこだと、その枠に身体を合わせて生き長らえようとする性もあるらしく、そうなると自浄作用なんて働くわけもない。下々とはいえ、その中にヒエラルキーもあって、やっぱり「下々の中でもエラくいたい」とか「今の生活を守りたい」てなことが優先されてしまうのかもしれない。

なんだかんだ言って、皆、足下のことに必死なのだろう。それは小市民としてはよくわかる。

 

しかし、である。

その組織の論理や構造に組み込まれていない外野からすれば、やっぱりへなちょこはへなちょこにしか見えない。「裸の王様」の童話そのままの光景だ。

世間から隠されている間は生き長らえることもできるかもしれないが、所詮は砂上のへなちょこ楼閣である。いつかは音を立てて崩れ落ち、その音で周りに気づかれ、白日の下に晒される。

 

それでも「謝り下手に出来上がったエラい人々」の無様さ加減を見かけるにつけ、「エラくいられる」魔法の杖は手放しづらいものらしい。

 

 その魔法の杖なり蜜の味なりが、たとえへなちょこであっても結構な繁殖力で蔓延ったり機能すること、決して絶えてなくならないことからすれば、別にエラい人でなくとも、それを「万能だ」「美味い」と感じてしまうのは、人が等しく持っている性のような気もする。

 

だから、何かの不祥事が起これば、さもまるで知らなかったような顔で糾弾する輩が湧いて出るのにも違和感がある。

 

いやいや、こんなの現場は絶対わかってたって。今クソ忙しいフリして対応に追われてるポジションの人間も、揃って今の今まで目を瞑ってただけだから。

糾弾してる側だって、実際そんなに勤勉か?もし勤勉だと言い切れるとしたら、誰かの実務能力におんぶに抱っこだから気づいてないだけじゃ?と思うことはしょっちゅうだ。

 

なに幻想に浸ってるんだろう、普通に一市民やってたらそんな世界の端々に触れる日々のはずなのに。

 

それでも報道なんかは追求することが仕事だ、と言うのかもしれない。もちろん伝えること自体の意味は大いにあるだろう。しかし「どう伝えるか」に自らのスタンスは透けて見える。

 

自らの食い扶持守るためにゲスな「なんちゃって正義」を掲げてる方が、同じく目を瞑ってる視聴者やら読者にウケるからじゃないの?

「生活守るために奇妙な仕組みに絡め取られてる」ことにおいて、この不祥事の現場の下々と何が違うのかね、と思う時は多い。ほんとうに多い。

 

だからまあ、起こるべくして起こっているのなら、どう気づいて修正するかしかなくて、目の瞑り具合が固ければ固いほど、その時間が長ければ長いほど、気づきイベントがド派手なだけだと思うのだ。そのきっかけがしばしば内部告発だったりするのも、自浄作用が働かないなら、ということなんだろう。

 

それにつけても麻痺したエラい人は現実に向き合えなかったりする。

つい先日も、立場上はエラい人の、エラそーな応対に接することができた。

 

簡単に言えば、とある案件で、対応窓口だったアウトソーシング先が、契約を終了していたことがどこにも周知されておらず、案内を頼りに旧窓口に連絡したら、そこのスタッフも終了してることを知らずに受け付けてしまい、事情に気づいた代表が無様な対応を見せた、というだけの話だったのだが。

まあアウトソーシングの依頼元が責任持って関係各位に連絡してないこと自体がそもそも悪いのだが、受ける側の代表も自分とこの部下にぐらい申し送っとけ、と思うわけで。

 

で、その事情がわかるまでに一週間を要した。当然その間、仕事は滞ってたわけだし、お門違いであれば最初に相談の電話入れた時点で断ってくれりゃいいのに、随分感じのいいスタッフが受けてくれたし、メールも送れと言われたので送ったのだが、後日、別のスタッフだったのか、ぶっきらぼうかつ要領を得ない対応になり、挙句の果てには対応案件でないから情報を横流ししたぐらいの勢いの返答をしてくるからちょっと待て、と。スタッフじゃようわからんのはわかったから、ならわかってる代表から連絡くれと頼んでおいたら、よその事務所に連絡しろ、とだけメールが来た。

 

あん?

 

いや、窓口ここだって話だよ。おたくのスタッフが愛想よくかつ頼もしい感じでメール送って来い言うたよ。何それ?案件ごとに窓口分けてんの?理由がわからんけど、どおゆうこと?

 

そして電話したら代表が渋々出てきて「案件が違うってこと?」と聞いたら「窓口が違うということ。それ以上は言えん」と。はぁ、そんなもんなんかね、まぁ接客中断されとるしな、と思いつつ、「エラそうかつ残念」臭がプンプンする声に、期待薄なのは明白だったので、さっさと話を終えた。

 

ところが、ある意味それが功を奏した。逆に言えば代表の虚勢が「あっさりバレる」ことになったのである。

 

電話を切ってから、あ、でもだったらあのメール、さすがに処分してもらわにゃいかんわ、言い忘れた、と思い、メールしたら、「いついつからこの窓口ではなくなりました。新しい窓口をご確認の上そちらへ」的な自動返信が届いたのだ。

そこには新しい窓口の連絡先は全く記されちゃいない。

 

ああ、干されたのね。

そして自分とこのスタッフにも言ってなかったのね。だから昨日今日で慌ててこのリプライこさえたのね。

さすがにその落ち度はあるからこの前寄越した返信には連絡先添えてきたわけだ。

つまり干されて以降、誰もこの窓口に連絡してなかったのね。しかも、過去もロクに使われてなかったけど定期収入だけは入ってたのね、きっと。

 

何が「それ以上は(回答できん)」だ。

さも契約上の機微に抵触するような物言いしやがって。

ただの周知ミスだろうよ。てか、てめーのスタッフに伝わってないのは完全にてめーのミスなのに、それをさも元依頼先の周知不徹底を悪く言う気はありませんから言いません的なスタンスにすり替えんじゃねーよ。と。

 

この手の輩は久々に見た。しかし各種の「先生」業には割と普通に生息している。と、経験上思っている。

「先生」と呼ばれた瞬間からあの人々は先生であって「エラい人」扱いなので、そこに違和感を感じることなんてないのかもしれない。たとえ世襲的なことがあっにせよ、なる気があるからなってるんだろうし、やってるんだろうし。

 

自分も「先生」と言われる立場には時々なるのだが、行き掛かり上、という感覚なので、やっぱり自分がエラいという立場になると居心地が悪い。麻痺しそうな感覚を自分でマトモに保つのはなかなかに骨が折れるのだ。そりゃハナから麻痺してた方がラクに決まってる。

 

しかし、ほんとうに心から「先生」と呼べる人は、やっぱり自浄能力も修正能力もちゃんと持ち合わせている。でないと本来「先生」と呼ばれる拠り所となる、何某かの優れた能力を研くことすら困難になるからだ。

 

「どんなに小さい子とだって競争だ。みんながどんどん上手くなっていくから、先生ももっと上手くならなきゃいけないと思ってがんばるんだ」

 

子どもの頃に聞いた師匠の言葉である。

自分が教える子が上達することへの誇らしさと、その伸びしろを感じ取れるだけの敏感さと、自分への振り返りを脅威ではなくモチベーションにしていたのだと思う。

子ども心にも、その時の「先生」はとてもいい顔に映った。

 

そういう「心根がマトモなエラい人」は、他人に謝る前に、自分を百万回振り返って修正を続けているように思う。だから結果として、そんなに謝らなくてもいい人生を送ってそれなりにエラくもなるんだろうし、謝る時が来ても、謝りどころと、恐らく他者への赦しどころも知っているんだと思う。

 

エラい人が謝れない、正せない問題は、社会的に「エラい」ことに価値を置いた瞬間から始まり、着々とその芽を育てて、いつか、元来持っていたはずの能力やら成長やらを止めるほどに育ちすぎて、結果自らの首を締める暴走に至るんだろうなぁ、と。

 

それはまあ無様なんだけれど、どこの世にも「王様は裸だ!」と言ってくれる無邪気な子どもはいるものである。

それが、人間という種がまだ生き長らえている救いだったり、バランスだったりなのかもしれない。

 

であれば、謝れないエラい人にも、救いの手はいつも差し伸べられているということだ。やんちゃで可愛らしい子どもの顔をして…いるかどうかはわからないが。

 

「忖度」以前。「事実のひも付け」に難がある。

いっとき世間を駆け巡った「忖度」というワード。

賢げな人が必要以上に気を回しちゃって、それが当たり前…と思ってやってたら方々からディスられる、という文脈で頻出したがゆえに、揶揄のニュアンス含みですっかり市民権を得たようだが、二、三歩引いて見れば、それでも「忖度できる」というのは、それなりのスキルだと思う。

 

だって、忖度をディスりまくった人々の中にも「忖度すらできない」人は多数含まれていただろう、と思われるからだ。

 

実際突き合わせたわけではないから推論でしかないが、自分が「いやコレ忖度すら無理だわ…」と思う事象に出くわす(というか見舞われる)確率と、当時ダダ下がりした政権支持率からしても、それぞれがまるで別の棲息地域に存在するとは思えないのだ。

 

忖度すら無理。

それはどういうことなのか。

 

あくまで自分の定義ではあるが、それは

「情報・事実を単品でしか処理できない」ということである。

すでにある事実や情報とひも付けられない。1はいつまでも1のまま、「ひとかたまり」の関係を結ぶことはなく、膨大な1にあっぷあっぷしているのだろうなぁ、と思しき事態にほんとうによく遭遇するからだ。

 

よく男性の脳やら思考回路が、その作りからして単純に出来ている、てな話はよく聞くが、個人的な経験からすると、そこまで明確に性差のある話ではない。

 

むしろ性差が出るほど微妙なレベルの話ではなく、出来るか、出来ないか、という差であり、ひいては、やったことがあるか、やり慣れているか、という、経験値や習慣の差なんだろうと思っている。しかし歳を食えば何とかなるというものではないらしく、老若男女問わずやらかしてくれる、ように思う。

 

別に四六時中、隅から隅までいろいろ気づけ、とは思わない。それも正直めんどくさい。

しかし、仕事でそれを求められるであろう場面となると話は別である。

 

個人的な頻出パターンに「コールセンターへの問い合わせ」がある。

電話だろうがメールだろうが、噛み合わない時はすこぶる噛み合わない。

 

あくまで自分の場合ではあるが、正直、コールセンターにわざわざ聞くようなことは「調べがつかないこと」「個人ではどうにも解決しないこと」である。

それは提供されている情報が曖昧だったり足りなかったりする時もあるし、最近はAIが回答するような仕組みもあるが、まぁ見事なまでに人をイラッとさせる外しっぷりだったりもする。

 

そしてFAQでもAIでもダメ、となって人間を頼るのだが。これがまた…なのだ。

 

相手のビジネスを慮れば、調べろや、的なことを聞いてくるユーザーが相当数を占めるであろうことも承知しているし、難問投げてくるユーザーに回答できる人員を揃えるにはとんでもなく人件費か手間がかかるということも承知している。そして多くのコールセンター人員の定着率が低いことも、だからこそ知識も経験も浅い人を一次受付に配置しなければならない悪循環な現実があるのも、知っているつもりだ。

 

しかし、だ。

回答や解決策になるべき専門知識が足りないことでイラッとしたことはほぼ皆無なのだ。

 

ほとんどは「何を聞かれてるかわかる?」「何を答えなきゃいけないかわかってる?」と聞きたくなるような、「問いの理解」に辿り着けないディスコミュニーケーションである。

 

単純な一問一答なら、今でもある程度はAIがサッと答えてくれるか、適切なFAQのリンクを提示してくれる。

最近は、時にその素早さと提示のバリエーションに感心することすらある。

だからこそ、「人」に頼るのは、咀嚼したり統合したりして初めて「何を答えるべきか」がわかるような問いであるはずだ。そしてそれを聞き、答えるという仕事であるはずだ。本来は。

 

すっかり地位を下げた「忖度」だが、その出処で行われたことの是非はともかく、本来、不明確なオーダーや相手の潜在的なニーズを汲み取り、的確な対処を返すことが高い精度でできるのなら、それは大した能力なんだと思う。

 

そのベースには、自分の持っている情報や知識、事実と、相手の困りごとを関連づけるための「ひも付け」のスキルが不可欠なように思う。

それは別に他人に対してのみ行われるものではなく、自分自身が立てる問いに対しても同じはずである。

 

疑問を持つこと。不思議に思うこと。

もしくはわからないと気づくこと。

その問いを言語化すること。

問いについて調べてみること。

調べてもなおわからない時は、何がわからないのか明確にすること。

わからない時に「解こうとする」こと。

自分の持つ知識や、調べるなどして得た情報とひも付け、時にはより詳しい人を探し出し、何らかの答えを出すこと。

一連の事実を、ひとかたまりにひも付けること。

 

それは、人が「知恵」をつける時、ある程度は普通に行われるいとなみのような気がするのだが。

 

発達なり学習なりというものも、それが身体の動作に置き換わっていることはあるかもしれないが、その根底にあるものは大して違わないのではないか。

できないという認知、やろうとする意欲や粘り、トライ&エラー、そして達成によって確認、強化される「一連の流れ」の習得。

 

例えば先のコールセンターでイラッとするのは「まず相手の聞きたいことを理解するのがおたくのミッションでは?」という前提があるからだが、さらに掘り下げれば「仕事で求められることを理解していないと仕事ってマトモに務まらないのでは?」もあるように思う。

 

もちろん、それはお前の勝手な前提だと言われてしまえばそれまでである。

それでもやはり、自らに問いを立てずに日々を過ごしていくことは「人らしい」いとなみなのか、という点において、疑問は残る。

特に、AIが下手くそながらも、そこそこいろいろ答えてくれるこのご時世、なおさらその感を強くしている。

 

AIに仕事を奪われる。どうすれば…?

 

それ以前に、自らに立てるべき問いがあるのではないか。

 

日々、自分が行っていることは「仕事」なのか。

「仕事」とは何か?

 

問いの「センス」だって、おそらく日々のいとなみの中で磨かれていくに違いない、と思う。

「本意」と「品位」が漏れ出ずる書面。

紙広告を扱っていた経験が長いもので、世の中のあらゆる書面・文面を「広告的に読む」クセがついている。

 

「広告的に」とはいえ、セールスライティングの出来を測っているわけではなく、どちらかというと、ブランド広告っぽい読み方である。

その発信者の「人となり」を推し量る材料として読む、という意味だ。

 

実はこのクセ、仕事でもしばしば役に立つ。その読み取り精度において「占い師みたい」らしい。

そのメカニズムを単純化できればそれが商売になりそうなもんだが、今のところ、このスキルの価値は「精度」にあるらしいので、「ざっくりまとめ」には食指も動かない。

第一、そこまで「一発欲」がない。

 

そして今回の題材は、とある(たぶん)法的拘束力のある書面である。

 

中身の精査は専門家の判断を仰いでみたりするのだが、これがなかなかめんどくさい。

これはこれでまた別記事にするとして、本題へ。

 

だいたいコンプライアンス系の書面なんて、どこぞの雛形を参照して適宜アレンジ、が大半だろうに、そのアレンジの「味つけ」に恐ろしく個性が表れるもんなのね、が、今回の気づきである。

 

今回、当の書面を見た第一印象が「まぁなんと自己防衛的な…」というもので。次に感じたのは「何というか、品のない…」と。

職務経験上、作成まではしないけれど、同趣旨の書面の取り交わしには幾度となく関わったことがあるので、正直、“こんなの初めて見た”級である。ときめき要素は皆無だが。

 

そして「広告的読み解き」にかけると、まぁこれが本当に発行元の「体質」をキレイに表しているんだな。

 

自分がこれを交付するとなったら一介の担当者としても恥ずかしい、みたいなモノを、何の注釈もなくピュルーン、とメールで飛ばしてくる行動まで、完璧な表現徹底である。

 

しかし、多少の羞恥心でもあればこうはならないわけで、まぁ大抵は無意識レベルなのだ。

何なら「善意を装うウィルス付きメールを、自分の連絡先全部をToにぶち込んで転送する」かの如く、ちゃんと義務を果たしているとすら思っていてもおかしくない。

 

いや、物騒なもん拡散してるから。

みたいな。

 

対岸の火事なら笑い話なのだが、またこれも相当な精度でガチ利害に関わるのでスルーもできない。

 

まあ、シャレはせめて通るところで飛ばしてほしい、とは思うが、当人至って真面目なだけに、その感覚の隔たりたるや、同じ国で同じ言語を話しているとは思っちゃイカン、という学びを強化して余りある。

 

とりあえず自戒を込めたメモライズと、ウイルス駆除、とまではいかないまでも、具体的な被害阻止に動くしかなし、という現状かなぁ、と。

 

まったく、無意識の「うっかりお漏らし」恐るべし、である。

くわばら、くわばら。

「ルール改定」というパフォーマンス。

最近、どうにも「ルールを変える、というウケ狙い」だわコレ、と感じることが多い。

票狙いのバラマキ政策とか、やり口自体は今に始まったものでもないのだが、「鼻につく」加減が、自分にとって度を越してきたような気がする。それは事象がエスカレートしてる面と、自分の感度が上がり過ぎてる面と、どっちもあるような気はしているけれど。
 
今、いちおう本業として勤めている場所は「改定 or DIE」みたいな業界ゆえ、年がら年中、どこかしらの部門が祭っているのだが、これ、誰のためにやってんですかねぇ、と思うこともしばしばだ。もちろんそれが過去、エンドユーザーの利便性に貢献してきたことは否めないし、放置すれば淘汰されるので、アレルギー反応のように忌避しているわけではない。
 
それでも「それは本質的な“改善”なのか?」とまっすぐ問えば、たぶん奥歯にものの挟まった答えしか得られないことも多い。そこにもっともらしい理屈をこねるところまでセットで「祭りテンプレ」だったりもするし。
 
このクリアな答えが得られないルール改定、業界とか社風などの固有の話ではなく、あくまでも感覚値でしかないけれど、あちらこちらに増えているような気がする。
 
一旦、「ルール」からは話が逸れるが、商いとしてはまぁ、そりゃそうだな、という状況がある。
受け手のクイックレスポンスが簡単に発信でき、受け取りやすくもなっているといった背景もあるだろうし、PCDAてな言葉を持ち出さずとも「放置即ち死」のリスクにさらされ、変えずにはいられない状況と、逆に変えさえすれば劇薬のように効く旧態依然とした環境が混在するからこそのカオスなのかもしれんなぁ、とも思う。
 
そういう意味では世の中的に「変更・改定慣れ」してきて、なんとなく受け入れ側の土壌も「あったまってきている」のかもしれない。
 
ここで話を戻す。
しかし「ルール」である。
 
法律でも条例でも規定でも制度でも種類は問わないが、基本的に「明文化された決まり」のことを指している。と、少なくとも自分はそのつもりでいる。
 
もちろん環境の変化に合わせて変わっていく部分がないとは言えないし、新たに必要になることもあろう。しかし、それがイベント化したり、キャッチコピー化したり、(いっとき流行った)ポエム化したりしてねーか?と。
 
「変えますよ祭り」で話題になることが主なんだろうなぁ、というルール改定に出くわすことが、最近とみに多いのだ。実際、各種ニュースのネタにもなりやすいし。
そしてニュース・話題はそう長持ちしないし、ほぼ誰もその後を追いかけない。特にヒドイと大揉めしない限りは。むしろ、変えない悪しきルールの方が粘り腰で追い回されたりする。
 
結果、「ルール改定」のパフォーマンスとしての役割は、8割方達成されてしまう。それが本質的に有効か、なんてことはまともに検討もしなくてよい。適当なアンケートでも取って、それをメインミッションとしている関係各位の都合のいいように肯定的な声をピックアップしておけば、この国で長いこと暮らしている人々の中にあるらしい、集団生活の暗黙のルールに守られ、閉じた組織の中だけではそうそう都合の悪い炎上は起きない。
 
発起人はそれなりに真剣なのかもしれないが、それが隅々まで伝わるようなレベルの内容やインパクトが伴うのなら、全員が黙って粛々と受け入れられる話でもなかろうし、ましてや詳細は空っぽなうちからまず外野に向かって声に出してみる、という(ゲスい部類の)広告的な手法は、誠実なコミュニケーションではない、とわかると思う。それでも手法として有効なら使うんだろうけど、少なくともそこに言いっぱなしやとりあえずモヤッとする文言貼り付けてやってみた、では終わらせられないと思う。
 
しかし初っぱな話題にされて、その聞こえの良さを連発しては全体のムードだけを醸成して、実態はどうであれ、それなりの成果に見える数字だけは揃えるように各所を締め付けて異論を封じ込め、「やった感」だけを作るような手法がどうにも横行している気がしてならない。
 
無茶な帳尻合わせが蓄積した挙句に内部告発で崩壊する(した)どこぞの企業を例に挙げるまでもなく、アカウンタビリティへの間違った処方箋の典型的なパターンと何ら変わりないのだが、実態を粉飾して乖離を起こすのよりは、何もないところ、まずいところから改善を装った「やるやる」キャンペーンを流布する方が罪がないとでも思うのだろうか。
「結果的にまるで誠実さを欠いていること」は詐欺とは違う、と?
 
少なくとも実行してるんだ、詐欺じゃない、と言うのかもしれんけど。その自己満足で誰を繋ぎ止めたいのだろう、と思う。そしてまぁそういう発信が多い人や団体の「実際の動き」をしばらくウォッチすると、本来どうあるべきかはともかく、「口よりずっと、目が足下を見ている」ケースの多いこと。
目先のことが何より大事なんだろうし、何なら生きる信条ぐらいに掲げてたはずのポリシーをころっと変えることさえ厭わない、なんてことも珍しくない。口や頭は過去の歴史や伝統とか、遥か未来の理想とかに飛んじゃってたりもするけど、身体は正直なのねぇ、と思う。
どんな集団も、今のところは人が動かしてるわけだし、人間という種が、個体差はあれどだいたい今の体格を保っている限り、そうそう肚(はら)の中と違う動きも取れないんだろう。そこまで器用な進化はまだしていないと思われる。
 
そんな詐欺くさいケースの数ほどには炎上騒ぎが発生しないのは、受け手もまた低体温化しているんだろう。ひとつは、あーまたか、と相手の肚は即バレしているものの、いちいち反応するのもめんどくさい、というパターン。もうひとつは本当に感度が下がって思考停止に陥ってるパターン。
 
前者も善処しない点においてはそこそこ罪深いのかもしれないが、後者はおそらく気もつかないレベルなので、手の施しようがない。ある意味おめでたいのだけれど、これもまた、本人そうでもなさそうなことが多い。それも道理で、自分が起きてると思ってる時間も大半は「目開けたまま寝てる」ようなもんだから、そりゃ何かにぶつかってみたり、飛んできたもの避けられなかったりもするでしょうよ、なんだけど。
 
そして、よくある炎上のパターンとして、前述のどちらにも属さない(けど「目開けたまま寝てる状態」においては同類の)「匿名の威を借る過剰反応」に放火される、みたいなケースもあるんだろうけど、話題にも上らなくなれば、そのリスクも減っていく。
そういう意味でも「ルール改定」という名のパフォーマンス(あるいはやるやる詐欺)は、いろんな意味で仕掛ける側に都合がいい。
 
となると、まあ、しばらくはこの傾向、止まらんのだろうな。
甘い汁は美味しい、もっと啜っていたい、と思うのもまた、ヒトという生きものの生存戦略なので。
 
で。さて、自分はどうするか、なんだけど。
 
引っかかり、違和感は決して心地よくはないけれど、少なくとも避けた挙句に麻痺していくよりは、一旦は心地悪さとともにいよう、と思う。
 
せっかく人間を営んでいるんだから、いろんな意味で、目覚めていられるように、努めてはいたいので。
 

社会的にオワコン(古)かもしれん、という事実。

先日、会社の人事制度の詳細を眺めつつ、自分にとってまるで「意味を成さない休暇」がもれなく設定されていることに気がついた。

簡単に言えば子育て中の人のためだけに認められた休暇である。

現行制度にしろその指針にしろ、そんなことに噛み付くのもバカバカしいほどツッコミどころがありすぎるので、別にそのこと自体は大して気にならないのだが、ふと、かなり重たい事実に気がついた。

 

あ、たぶん産めねぇ。

 

普段、性別をことさら気にすることなく生きてきて、ただそれがずっと続いているのみながら、「さすがに物理的に無理だろう」という認識はあり、別に目を背けていた、認めることを避けていた、というわけでもない。

 

ただ、先週末、社会問題を論ずるSNS投稿のシェアが通常より高頻度でタイムラインに出現したり、「うわ、サイテーじゃわ」という出来事に際したので、暇つぶしに「普通に最低」とググったら「今の最低賃金では最低限度の生活すら送れない問題」がゴリ押されてきたりして、割とソーシャルな物言いを目にすることが多かった。

そしていずれにも何かうまく説明できない引っかかりを感じて過ごしていたのだが、日曜も夕方になってから、最寄の駅前を歩きながらまた気がついた。

 

あ、これ「将来『世代』」の話だ。

 

もちろん全部が全部ではないが、「親目線」のコメントがあり、早急な解決が見込めそうにないとか、将来にわたっての悪影響が懸念される話があり、背景に少子超高齢化問題が見え隠れし…と、これまたなかなかのヒット率で将来世代を視野に入れた話揃いだった。

 

そして、タイトルに行き着く。

 

結婚・出産・子育て経験オール白紙のアラフィフ独居女なんざ、社会的にオワコン扱いだな。

 

他人事のように言ってますが自分のことです。念のため。

社会保障費が局所的にばら撒かれることになっても、まぁこの属性に順番が回ってくる頃には大概枯渇しているであろうことは想像に難くない。しかもまた人口多いんだ、この世代。

 

昔「生まれてこの方、社会的に何ひとついいことがなかった世代」だと称されていた記憶がある。

それでも当人は他の世代を生きられるわけでもないので比べようがないし、自分に限らず「そんなもん」で、そこまで「この世代に生まれてしまった」絶望感はないのではないかと思う。第一、そんな絶望っぷりでは普通に生きづらかろう。もちろん実感に個人差はあるだろうけど、それは個人の事情や心情による差であって、むしろもっと下の世代からは「そんなお気楽で、あんた達はバカなの?」と映っているようにすら感じるし。

 

しかも女性は出産適齢期をとうに過ぎ、非正規雇用花盛りで、この歳で一回も結婚してないなら98%だかというきわめて高確率で一生独身決定、と統計に引導を渡され、何に希望を見出せと?という状態である。

いや、この世代の全女性が、じゃないけれど。しかしなまじ人口の多い世代、別に自分が特別レアだという気もしない。

 

そしてまた頭をよぎる社会問題。

 

もしやこれ、「空き家」と同じ…?

 

今のところ、まだいちおう働けて納めるもん納められてるだけ社会的にも歯車として機能してるんだろうけど、それすら終わってしまったら。

 

使わないけど厳然とそこにある。

しかも数がハンパじゃない。

 

という意味において、空き家と何が違うのだろう、と。

なんでこんなにいるのかなぁと、後の世代の文字通りの「お荷物」として、半ば公然と問題視されても不思議ではない。

しかし「いっぱい生まれちゃった」ことは、当の世代にとっても、到底、個々人の問題とは思えない。

さらに結婚もしてなきゃ子どももいないとなれば、自分の老いや、社会に支えられる一方、という立場に立つことに、あからさまに影響を受ける「人」が具体的な像を結ばない。

 

どうやら世間様に生かされてるらしいが実のところ風当たりは冷たい。かつてほど無視はされないが、早々の自然減狙いで「あえて放置」されてるフシもある。…みたいな老後もなかなかにしょっぱすぎる。

 

ただ、我々オワコン扱いですよね?と問うて「そうですよ」と答えてくれるバカ正直な行政もそうそうないだろうから、まぁ、ひっそりと「空き家化」していくのかなぁと。

 

リアル空き家問題が表面化し始めた頃、家を買うという計画も原資もない同世代で「終の住処」を論じたことがある。友人は独居老人の入居拒否を恐れて持ち家はマジ必要、と言っていたが、私は「稼ぎが伸びもしないのに人口だけ多い世代のボリューム、ナメちゃいかんよ。絶対無視できなくなるし空き家問題もその頃まで引っ張ってるだろうから完全に住み手市場じゃね?」とかなんとか言ったように思う。

ボリュームを無視できないという見立てに変わりはないが、まさか自分=空き家という見立てに至るとは。

 

だからといってこれがまた悲観でもないんだな。

まぁ今のところ健康保険料をまるごとドブに捨てる勢いで、おおむね健康に、それなりに働けてもいるから、というのは大きいけれど。

たとえこの属性がオワコン扱いだとしても、選びもしてないプランBのタラレバに意味はないし、子どもを産もうが産むまいが、社会システム的に「生産」をアテにされない年齢はほぼ等しく訪れるし。

 

ただ、悲観にならない一番の理由は、オワコン・空き家扱いまでは想定してなかったにせよ、こういう人生をよしとしてきた、という自覚だけは明確だから、だろう。

自分で選んだんなら納得ずくだし、その選択もまぁ悪くない、って実感があるから、後悔もないし、損得や運不運で考えることもない。常に選べる状況にあった境遇のありがたさに喜びこそすれ。

 

ザクッと世代や属性で切り取られてしまえば、ゆくゆく社会の大きなお荷物と化すカタマリかもしれないけれど、社会的な扱いと、個人がどう生きるかは、影響はあっても決してイコールではない。

そして人があるセグメントに当てはまれば「何も産み出さない」と見なしてしまうのも、一括りにして考えたい側の都合でしかなく、それが国だろうがどこぞのシンクタンクだろうがご近所さんだろうが、極論すれば他人の勝手な言い分だ。それらが個人を生きづらくすることはあっても、個人にそう生きろと規定しているわけではない。というか、便宜上の「カタマリ」で全てを結論づけてしまうことこそ、人を等しくゴミにしかねない危うさそのものだ。

 

逆に言えば、世間の風やおのれの懐がいかに冷え冷えとしていようとも、個人がその冷気に絡め取られてしまわない限り、個は尊重される。

当人も無意識のうちに、ボディブローのように、あるいは溜まっていく澱のように、環境に、あるいは自分自身の決めごとに追い詰められてしまうことがあるし、その息苦しさ、蟻地獄のような身動きの取れなさも、知らないわけではない。むしろ、十分すぎるほど味わっている気すらする。

それでも「選択」の余地は常に残されているし、今ここにいるのだって、意識して選び取ったつもりはなくとも、いきものとして日々、本能が「生存」を選択し続けている結果、とも言える。

なら、できる限り能動的に、自覚的に、「カタマリの一部」ではなく「個」としての生き方を選ぶ瞬間、個人が増えることで、結果的に「カタマリ」の見え方も変わるのかもしれない。

 

もちろん中には選択の余地をまるで感じられないほどハードな状況にある人もいるのだろう。そこを「カタマリ」で切り捨て、その責任を別の「カタマリ」に紛れ込ませる「個」の存在があるなら、また同様に、支える「個」として存在することもできる。そして、希望も絶望も「個」にしか宿らない気がする。たとえそれがボリュームを得て、マスになったとしても、本質は個々が持ち合わせているはずだし、それが一様に映って初めて「カタマリ」となるのだろうから。

 

だったらそう遠くない将来、我々が属するらしい「カタマリ」が空き家化するリスクも、「個の選択」次第で景色を変えるのかもしれない。

 

いずれにせよ、これから先も選択の瞬間は訪れ続ける。ある瞬間、絶望のカードを引いたとしても、次の瞬間に手放すこともできる。それこそが希望や可能性の源泉のように思える。少なくとも、今のところは。