遺書、もしくは 足あと。

カノウイノリの独白です。重たい感じですみません。

神はディテールに宿り、ボロは日々に露出する。

ユーザーとして接していようが労働者として接していようが、基本的に企業と何らかの接点を持てば、その企業の人格的なものが透けて見えることは結構ある。

 

つまりは「ブランド」とも重なるわけだが、ブランディングも外面だけじゃいけません、と、インナーブランディングの重要性が説かれ始めてもう随分経つ。

 

カネの観点でも、古くはメセナCSR活動といった「聞こえのいい部分」だけ頑張って喧伝すれば済んでいたのが、より実質的に本業の姿勢が問われるESG投資の流れなんかもここに当てはまると思う。

 

これを自身の個人的な感覚に置き換えると、別に求職中の浪人生活をしてなくても「正規雇用で禄を食むのが恥ずかしい企業」はユーザーとしても支持したくないし、利用も極力抑えたい、やむを得ない場合も「割り切ったお付き合い」に留めたい残念企業、となる。

 

そして「残念企業」は、別に直接接点を持った現場に限らず、だいたい他にも珍妙な所が(一ユーザー、一労働者が取れる情報の範疇ですら)散見される。

 

まぁそんな所は淘汰されろ、と思ってるから、状況が許せば離脱するに限るが、最近、時間差でやって来る「残念波」にこの感を新たにした。

 

コトは確定申告である。

サラリーマンやってても、いつの頃からか、主に還付のために毎年申告してはいたが、浪人生活の単発ワークなんざ入れたら当然必要になる。

 

各社の源泉徴収票が揃うわけだが、普通同じ基準で出されていると思うだろうが、単発ワークからは源泉徴収しない企業もあるし(要は給与の乙欄になる部分には手をかけないということだ)、徴収されてるからってそのまま受け取ってよい、ということもない。

いや、普通はよい「はず」だが。

 

とある(離脱させて頂いた)企業の源泉徴収票を受け取り(もちろん黙って送られてくるなんてこともない。自分で手配して引き取りに行く)、まじまじと眺めて気がついた。

 

非課税の交通費まで「支払金額」に含めとる。

 

え?月に10万も15万も(=課税対象になるほどの)交通費払って雇ってる人いんの?そんなわけないっしょ。最低賃金に近い時給で。

なんでこんなシステム組んだ?

それとも経理が物知らずなのか?

 

ほんとに恥ずかしいってこういうことだな。ひでぇな、と思うと同時に、あれ?これ、去年も同じだったのか、と気がついた。

 

つまりは一昨年分の申告も同様だったわけで。当時も変やなぁとは思っていたが気がついていなかった。(今ほどヒマじゃなかったし)

そしてこのシステム、確か去年からリリースされたやつだった。

 

去年からほぼ全員分間違っとるやん。

そして確定申告した人は須く余分の税金取られとるやん。

 

…とここで、残念企業の基準をふと、国税局にも当てはめる。

この人々は、自ら「多く払い過ぎてますよ」と言わないばかりか、マトモに払ってる人(個人事業主とか中小企業とか)の所にまでイチャモンつけて税務調査入っては、何にも出ないと理屈の通らない悔し紛れの暴言吐き捨てて帰るんだった。

 

あぁ…、確かに恥ずかしいと思ったな、学生バイトの頃に。まぁごく近所でまとまった勤務ができる春休みバイトやから来てるけど…と。

思えば地元企業との癒着かと思えるようなお土産が、申告最終日にはバイトにも配られたりしていた。逆にそれを購入していたとすれば国民の血税を何に使っとんねん、という話で。

あと「仕事を見られてる」という観点からしても、管轄の納税者を雇い入れてるって感覚が完全に欠落していると思われる。まぁやってくるのが学生と主婦ならそうなるんかもしれんが。

職員の娘さんとたまたま同じセクションにいたからだったと思うけど、飲み会に誘われて一回行った時にも、学歴だけで人を評価する、明らかに仕事できそうにないゲスなおっさん、おったなぁ、とか。

 

ここまで残念な感じはしばらく接してなかったのでちょっと忘れかけてたが、久々に記憶が蘇った。

最近、単発ワークの現場で学生バイトと接することもあるが、世間一般で言う高学歴の子が来ていることも多い。

ゆえに「この企業は就職先として選ばんな、って現場や派遣元、あるよね?」と話すことは多い。

もちろん大人同士でもそういう話はするけど、この辺の話がすんなり通るか否かは「どう社会を見てきたか」「どうワーク(仕事に限らず学びや経験)に取り組んできたか」によるな、とも感じる。

 

まぁそれは、普通に企業の一担当者と接してても一緒のことで、話題により視座の高さ視野の広さの違いがあっても、基本的に「日々の考えと行動が、今のその人を作っている」ことに変わりはない。

 

もちろん性格(タイプ・気質)の違いによるバイアスはある。けれど、それも超える日々がある、ということは言い切れると思う。

 

それが寄せ集まってある程度大きな塊として見えているのが企業なり団体なり国家なりであって、一括りにして見ることへの弊害はあるけれど、それは対個人への眼差しと同様、完全には防げない。

ヒトが理解と記憶のために「バラバラの情報を括る」のはある種必然だから。

 

一括りにして「全てわかった気にならない」ことを心掛けるなら、その傾向を捕まえることはお門違いではなかろう。

そこに日々の営みの積み重ねを見られるならば、やっぱり積み重なった「残念」もある程度の塊として見えてきたとしても、致し方ない。

 

まぁ、よき営みにだけ接しているとわからなくなる、と思えば、この累々とした「残念」もザラッザラの磨き砂だと思うのがよかろう、というのが現時点の結論である。