遺書、もしくは 足あと。

カノウイノリの独白です。重たい感じですみません。

なぜにカノウは「虎穴」に入る?

新年色がまるでない投稿ですが、ひとつ。

 

時々行う「虎の穴」と称している個人活動がある。

(広義の)メディア上で「一家言ある」らしき方の、自分とは到底相容れないオピニオンを拝聴(読)する、というもの。

 

味わうポイントは、まずは自分との差。
「いかに違うか」より「なんで違うんやろ」探し。

 

ゆえに、その方の人となりがわかるプロフィールや写真・動画等参考に、「そのご意見の成り立ち」に合点がいく程度には掘ってみる。


大概、環境の違いを感じるし、それそれの環境に棲息する人の生態にも、多少はリアリティが湧く。

 

次の味わいポイントは、そのご意見の扱われ方。
「伝える」を生業としていた名残っちゃあそうだけど、イヤでも目に入るので。

 

その方の現実を基にした考え+検証済みの事実が揃えば、まぁ「ご本人の」真実とは言えるんだけど。

その論旨には、範囲の大小はあれど、大抵、“限定的な前提”が存在する。

しかしコレをすっ飛ばして伝えている、のが普通。

 

そこにはメディアが流通するシステム特性と、ある種の人間らしさでもある「ものぐさ加減」に突き当たる。

最初から意図されたものでなくとも、どちらも人と技術の進化の過程を経てきた産物である。

つまり、それ自体に善悪はなく、あくまで「使い方」でどちらにも転ぶ。

 

で、使い方を眺めてみると、システム特性への適合を追求すれば「(良くも悪くも)刺さってバズる」状態を目指すことになる。

 

その規模と伝播のスピードが、テクノロジーの進化で爆発的に増したことで「バズる土壌づくり」が求められ「バズることで回る経済」の構造もできている。

 

そして、クリック誘引が必要な複層構造なら「見出し化」がそのキーになる。「見出し化」自体は、情報処理とコミュニケーション上、「印象づける」ための、割と古典的な手法である。

 

それぞれは別々に進化しているに過ぎない。
その合わせ技の上に成り立ち発信される「オピニオン」が、諸々の前提をいちいち注釈していてはキリがない、とも言える。

 

けれど、その“前提すっ飛ばし”を、メディアリテラシーの名の下に受け手に委ねるってどうよ、とは、やっぱり思う。
そこは昨今の社会を論じる際に不可欠な「自己責任」にも通じるけれど。

 

ほんとに伝える側が、わかっててすっ飛ばしたり伏せてる前提なら、かつての(いや今もか)某スポーツ紙の宇宙人発見報が「いつものアレなw」と、共通認識化できる「暗黙の了解」になり得るでしょうに、と。

 

「虎の穴」活動は、身近な題材から「そのオピニオンを肯定的に受け入れる人」の存在を想像する作業でもある。

 

現にシステムが何を思ったかw わざわざ推してくるものに従って見聞きすることもあり、その情報を私のように使う人がメジャーだとは思えない。

 

発信側にいちいち説明しろとは言わんし、受け手にそこまで情報をしゃぶり尽くせとも思わんけど。


それでも、やっぱり問いは残る。

 

「ほんとに、“人は諸々前提すっ飛ばす”って、わかってます?」

 

「システム特性やボリュームやマネタイズ手法の“それぞれの都合”に従った結果、起こること(特にリスク)、認識できてます?」

 

「諸々すっ飛ばしてることに気づかなくても、声がボリューム持つと“世論”になるって知ってます?」

 

「これ、誰を幸せにしてるんですかね?」

 

これらはたぶん、「この社会の生き方」への問いなんだと思う。
もちろん、まず第一に、「そういうことを抜かしがち」だと自戒して、忘れないための問いである。