遺書、もしくは 足あと。

カノウイノリの独白です。重たい感じですみません。

謝罪・解決と「心情」の、かくも複雑なカンケイ。

街頭で、とある健康被害に関するキャンペーンビラを受け取った。

初っ端に、国と企業に対する「謝れ!」という言葉が躍っている。

もちろん訴訟問題ってそういうことやから、という前提で、当然その言葉になるんやろな、は持ちつつも。

 

謝ってもらえば気の済むことなんて、実際、あるんやろか、と。

 

前にも触れたが、個人的には昔から、自分に対して「謝ってもらう」ことはどーでもええし、大っぴらな謝罪行為なんて、昨今のいじめ現場の「握手で解決」問題に近しい、「外向けのパフォーマンス」やと思っている。

むしろそれをきっかけに、心情的にはよりやるせなく、事態としてはよりこじれていってもおかしくないやろう、と。

 

第一、謝罪があろうがなかろうが「気の済まんこと」は自他ともに「ない」わけがない。

表現も欲求も人それぞれではあるけれど、もし「胸クソ悪いこと」が「謝られたらスッキリ」するほど単純だとしたら、そもそも「謝れ」と言うほどのことですらないかもしれんし。

 

最近、巷でもてはやされる各種メソッドの「ないよりマシ」効果にビビることが多い。簡単なことでも、まるでやってない「ゼロ状態」の人にはちゃんと効く、という、至極当たり前の事実なのだが、そっちではなく、それくらい「ゼロ」が蔓延ってんのか!という現実の方に寒気がする時がある、という話である。

 

これは、「謝れ」の心理にも重なるのかもしれない。それが「取り返しのつかない事態の事実解明」であったとしても同じなのかもしれぬ。

 

どうやっても覆水盆に返らず、だとしても、それでも自身にとってはどうしようもなく毎日向き合わされる現実を、「なかったこと」のように過ごす「ゼロ状態」の世界に、せめてもの楔を打ち込むための「よすが」であり「旗印」なのかなと。

 

それは問題の解決や改善を望み、それが実現されていく、という根本的かつパプリックにも役に立つ「建設的な方向」に昇華していくにはハードルが高すぎるから、という部分もあるし、逆に建設的に解決していけばいったで燃え残りのようにくすぶり続ける心情を置き去りにもできない、ということでもあるのだろう。

 

ということは、どれだけ物騒なシュプレヒコールも、その内に「どうしようもなくやるせなく、切ない何か」を宿しているんだ、という目を持ってもいいのかもしれんな、と。

 

だとすればまぁ「謝れ」と言おうが言うまいが、大概そこには、謝られても済ませようのない、かと言ってはっきりとした解決の方向も見えない何かに傾ける「心情」が、自覚の有無を問わず、もれなくあるんやろうな、と。

 

とりあえず、今の自分としては、こういう事態の当事者になったり、当事者に関わる時に忘れんようにしとこ、という「備忘録」のひとつにはなるかな、と。

 

一方、「エラい人の謝り下手」は別問題ではある。ただ、基本的には「謝れない人々自身の問題」まで抱える義理はないし、まぁ此奴らがホイホイ謝るようになったところでやっぱり「胸クソ悪い」ことには変わりないんだろう、ということは覚えといた方がええな、と思う。