先日、会社の人事制度の詳細を眺めつつ、自分にとってまるで「意味を成さない休暇」がもれなく設定されていることに気がついた。
簡単に言えば子育て中の人のためだけに認められた休暇である。
現行制度にしろその指針にしろ、そんなことに噛み付くのもバカバカしいほどツッコミどころがありすぎるので、別にそのこと自体は大して気にならないのだが、ふと、かなり重たい事実に気がついた。
あ、たぶん産めねぇ。
普段、性別をことさら気にすることなく生きてきて、ただそれがずっと続いているのみながら、「さすがに物理的に無理だろう」という認識はあり、別に目を背けていた、認めることを避けていた、というわけでもない。
ただ、先週末、社会問題を論ずるSNS投稿のシェアが通常より高頻度でタイムラインに出現したり、「うわ、サイテーじゃわ」という出来事に際したので、暇つぶしに「普通に最低」とググったら「今の最低賃金では最低限度の生活すら送れない問題」がゴリ押されてきたりして、割とソーシャルな物言いを目にすることが多かった。
そしていずれにも何かうまく説明できない引っかかりを感じて過ごしていたのだが、日曜も夕方になってから、最寄の駅前を歩きながらまた気がついた。
あ、これ「将来『世代』」の話だ。
もちろん全部が全部ではないが、「親目線」のコメントがあり、早急な解決が見込めそうにないとか、将来にわたっての悪影響が懸念される話があり、背景に少子超高齢化問題が見え隠れし…と、これまたなかなかのヒット率で将来世代を視野に入れた話揃いだった。
そして、タイトルに行き着く。
結婚・出産・子育て経験オール白紙のアラフィフ独居女なんざ、社会的にオワコン扱いだな。
他人事のように言ってますが自分のことです。念のため。
社会保障費が局所的にばら撒かれることになっても、まぁこの属性に順番が回ってくる頃には大概枯渇しているであろうことは想像に難くない。しかもまた人口多いんだ、この世代。
昔「生まれてこの方、社会的に何ひとついいことがなかった世代」だと称されていた記憶がある。
それでも当人は他の世代を生きられるわけでもないので比べようがないし、自分に限らず「そんなもん」で、そこまで「この世代に生まれてしまった」絶望感はないのではないかと思う。第一、そんな絶望っぷりでは普通に生きづらかろう。もちろん実感に個人差はあるだろうけど、それは個人の事情や心情による差であって、むしろもっと下の世代からは「そんなお気楽で、あんた達はバカなの?」と映っているようにすら感じるし。
しかも女性は出産適齢期をとうに過ぎ、非正規雇用花盛りで、この歳で一回も結婚してないなら98%だかというきわめて高確率で一生独身決定、と統計に引導を渡され、何に希望を見出せと?という状態である。
いや、この世代の全女性が、じゃないけれど。しかしなまじ人口の多い世代、別に自分が特別レアだという気もしない。
そしてまた頭をよぎる社会問題。
もしやこれ、「空き家」と同じ…?
今のところ、まだいちおう働けて納めるもん納められてるだけ社会的にも歯車として機能してるんだろうけど、それすら終わってしまったら。
使わないけど厳然とそこにある。
しかも数がハンパじゃない。
という意味において、空き家と何が違うのだろう、と。
なんでこんなにいるのかなぁと、後の世代の文字通りの「お荷物」として、半ば公然と問題視されても不思議ではない。
しかし「いっぱい生まれちゃった」ことは、当の世代にとっても、到底、個々人の問題とは思えない。
さらに結婚もしてなきゃ子どももいないとなれば、自分の老いや、社会に支えられる一方、という立場に立つことに、あからさまに影響を受ける「人」が具体的な像を結ばない。
どうやら世間様に生かされてるらしいが実のところ風当たりは冷たい。かつてほど無視はされないが、早々の自然減狙いで「あえて放置」されてるフシもある。…みたいな老後もなかなかにしょっぱすぎる。
ただ、我々オワコン扱いですよね?と問うて「そうですよ」と答えてくれるバカ正直な行政もそうそうないだろうから、まぁ、ひっそりと「空き家化」していくのかなぁと。
リアル空き家問題が表面化し始めた頃、家を買うという計画も原資もない同世代で「終の住処」を論じたことがある。友人は独居老人の入居拒否を恐れて持ち家はマジ必要、と言っていたが、私は「稼ぎが伸びもしないのに人口だけ多い世代のボリューム、ナメちゃいかんよ。絶対無視できなくなるし空き家問題もその頃まで引っ張ってるだろうから完全に住み手市場じゃね?」とかなんとか言ったように思う。
ボリュームを無視できないという見立てに変わりはないが、まさか自分=空き家という見立てに至るとは。
だからといってこれがまた悲観でもないんだな。
まぁ今のところ健康保険料をまるごとドブに捨てる勢いで、おおむね健康に、それなりに働けてもいるから、というのは大きいけれど。
たとえこの属性がオワコン扱いだとしても、選びもしてないプランBのタラレバに意味はないし、子どもを産もうが産むまいが、社会システム的に「生産」をアテにされない年齢はほぼ等しく訪れるし。
ただ、悲観にならない一番の理由は、オワコン・空き家扱いまでは想定してなかったにせよ、こういう人生をよしとしてきた、という自覚だけは明確だから、だろう。
自分で選んだんなら納得ずくだし、その選択もまぁ悪くない、って実感があるから、後悔もないし、損得や運不運で考えることもない。常に選べる状況にあった境遇のありがたさに喜びこそすれ。
ザクッと世代や属性で切り取られてしまえば、ゆくゆく社会の大きなお荷物と化すカタマリかもしれないけれど、社会的な扱いと、個人がどう生きるかは、影響はあっても決してイコールではない。
そして人があるセグメントに当てはまれば「何も産み出さない」と見なしてしまうのも、一括りにして考えたい側の都合でしかなく、それが国だろうがどこぞのシンクタンクだろうがご近所さんだろうが、極論すれば他人の勝手な言い分だ。それらが個人を生きづらくすることはあっても、個人にそう生きろと規定しているわけではない。というか、便宜上の「カタマリ」で全てを結論づけてしまうことこそ、人を等しくゴミにしかねない危うさそのものだ。
逆に言えば、世間の風やおのれの懐がいかに冷え冷えとしていようとも、個人がその冷気に絡め取られてしまわない限り、個は尊重される。
当人も無意識のうちに、ボディブローのように、あるいは溜まっていく澱のように、環境に、あるいは自分自身の決めごとに追い詰められてしまうことがあるし、その息苦しさ、蟻地獄のような身動きの取れなさも、知らないわけではない。むしろ、十分すぎるほど味わっている気すらする。
それでも「選択」の余地は常に残されているし、今ここにいるのだって、意識して選び取ったつもりはなくとも、いきものとして日々、本能が「生存」を選択し続けている結果、とも言える。
なら、できる限り能動的に、自覚的に、「カタマリの一部」ではなく「個」としての生き方を選ぶ瞬間、個人が増えることで、結果的に「カタマリ」の見え方も変わるのかもしれない。
もちろん中には選択の余地をまるで感じられないほどハードな状況にある人もいるのだろう。そこを「カタマリ」で切り捨て、その責任を別の「カタマリ」に紛れ込ませる「個」の存在があるなら、また同様に、支える「個」として存在することもできる。そして、希望も絶望も「個」にしか宿らない気がする。たとえそれがボリュームを得て、マスになったとしても、本質は個々が持ち合わせているはずだし、それが一様に映って初めて「カタマリ」となるのだろうから。
だったらそう遠くない将来、我々が属するらしい「カタマリ」が空き家化するリスクも、「個の選択」次第で景色を変えるのかもしれない。
いずれにせよ、これから先も選択の瞬間は訪れ続ける。ある瞬間、絶望のカードを引いたとしても、次の瞬間に手放すこともできる。それこそが希望や可能性の源泉のように思える。少なくとも、今のところは。