遺書、もしくは 足あと。

カノウイノリの独白です。重たい感じですみません。

「ルール改定」というパフォーマンス。

最近、どうにも「ルールを変える、というウケ狙い」だわコレ、と感じることが多い。

票狙いのバラマキ政策とか、やり口自体は今に始まったものでもないのだが、「鼻につく」加減が、自分にとって度を越してきたような気がする。それは事象がエスカレートしてる面と、自分の感度が上がり過ぎてる面と、どっちもあるような気はしているけれど。
 
今、いちおう本業として勤めている場所は「改定 or DIE」みたいな業界ゆえ、年がら年中、どこかしらの部門が祭っているのだが、これ、誰のためにやってんですかねぇ、と思うこともしばしばだ。もちろんそれが過去、エンドユーザーの利便性に貢献してきたことは否めないし、放置すれば淘汰されるので、アレルギー反応のように忌避しているわけではない。
 
それでも「それは本質的な“改善”なのか?」とまっすぐ問えば、たぶん奥歯にものの挟まった答えしか得られないことも多い。そこにもっともらしい理屈をこねるところまでセットで「祭りテンプレ」だったりもするし。
 
このクリアな答えが得られないルール改定、業界とか社風などの固有の話ではなく、あくまでも感覚値でしかないけれど、あちらこちらに増えているような気がする。
 
一旦、「ルール」からは話が逸れるが、商いとしてはまぁ、そりゃそうだな、という状況がある。
受け手のクイックレスポンスが簡単に発信でき、受け取りやすくもなっているといった背景もあるだろうし、PCDAてな言葉を持ち出さずとも「放置即ち死」のリスクにさらされ、変えずにはいられない状況と、逆に変えさえすれば劇薬のように効く旧態依然とした環境が混在するからこそのカオスなのかもしれんなぁ、とも思う。
 
そういう意味では世の中的に「変更・改定慣れ」してきて、なんとなく受け入れ側の土壌も「あったまってきている」のかもしれない。
 
ここで話を戻す。
しかし「ルール」である。
 
法律でも条例でも規定でも制度でも種類は問わないが、基本的に「明文化された決まり」のことを指している。と、少なくとも自分はそのつもりでいる。
 
もちろん環境の変化に合わせて変わっていく部分がないとは言えないし、新たに必要になることもあろう。しかし、それがイベント化したり、キャッチコピー化したり、(いっとき流行った)ポエム化したりしてねーか?と。
 
「変えますよ祭り」で話題になることが主なんだろうなぁ、というルール改定に出くわすことが、最近とみに多いのだ。実際、各種ニュースのネタにもなりやすいし。
そしてニュース・話題はそう長持ちしないし、ほぼ誰もその後を追いかけない。特にヒドイと大揉めしない限りは。むしろ、変えない悪しきルールの方が粘り腰で追い回されたりする。
 
結果、「ルール改定」のパフォーマンスとしての役割は、8割方達成されてしまう。それが本質的に有効か、なんてことはまともに検討もしなくてよい。適当なアンケートでも取って、それをメインミッションとしている関係各位の都合のいいように肯定的な声をピックアップしておけば、この国で長いこと暮らしている人々の中にあるらしい、集団生活の暗黙のルールに守られ、閉じた組織の中だけではそうそう都合の悪い炎上は起きない。
 
発起人はそれなりに真剣なのかもしれないが、それが隅々まで伝わるようなレベルの内容やインパクトが伴うのなら、全員が黙って粛々と受け入れられる話でもなかろうし、ましてや詳細は空っぽなうちからまず外野に向かって声に出してみる、という(ゲスい部類の)広告的な手法は、誠実なコミュニケーションではない、とわかると思う。それでも手法として有効なら使うんだろうけど、少なくともそこに言いっぱなしやとりあえずモヤッとする文言貼り付けてやってみた、では終わらせられないと思う。
 
しかし初っぱな話題にされて、その聞こえの良さを連発しては全体のムードだけを醸成して、実態はどうであれ、それなりの成果に見える数字だけは揃えるように各所を締め付けて異論を封じ込め、「やった感」だけを作るような手法がどうにも横行している気がしてならない。
 
無茶な帳尻合わせが蓄積した挙句に内部告発で崩壊する(した)どこぞの企業を例に挙げるまでもなく、アカウンタビリティへの間違った処方箋の典型的なパターンと何ら変わりないのだが、実態を粉飾して乖離を起こすのよりは、何もないところ、まずいところから改善を装った「やるやる」キャンペーンを流布する方が罪がないとでも思うのだろうか。
「結果的にまるで誠実さを欠いていること」は詐欺とは違う、と?
 
少なくとも実行してるんだ、詐欺じゃない、と言うのかもしれんけど。その自己満足で誰を繋ぎ止めたいのだろう、と思う。そしてまぁそういう発信が多い人や団体の「実際の動き」をしばらくウォッチすると、本来どうあるべきかはともかく、「口よりずっと、目が足下を見ている」ケースの多いこと。
目先のことが何より大事なんだろうし、何なら生きる信条ぐらいに掲げてたはずのポリシーをころっと変えることさえ厭わない、なんてことも珍しくない。口や頭は過去の歴史や伝統とか、遥か未来の理想とかに飛んじゃってたりもするけど、身体は正直なのねぇ、と思う。
どんな集団も、今のところは人が動かしてるわけだし、人間という種が、個体差はあれどだいたい今の体格を保っている限り、そうそう肚(はら)の中と違う動きも取れないんだろう。そこまで器用な進化はまだしていないと思われる。
 
そんな詐欺くさいケースの数ほどには炎上騒ぎが発生しないのは、受け手もまた低体温化しているんだろう。ひとつは、あーまたか、と相手の肚は即バレしているものの、いちいち反応するのもめんどくさい、というパターン。もうひとつは本当に感度が下がって思考停止に陥ってるパターン。
 
前者も善処しない点においてはそこそこ罪深いのかもしれないが、後者はおそらく気もつかないレベルなので、手の施しようがない。ある意味おめでたいのだけれど、これもまた、本人そうでもなさそうなことが多い。それも道理で、自分が起きてると思ってる時間も大半は「目開けたまま寝てる」ようなもんだから、そりゃ何かにぶつかってみたり、飛んできたもの避けられなかったりもするでしょうよ、なんだけど。
 
そして、よくある炎上のパターンとして、前述のどちらにも属さない(けど「目開けたまま寝てる状態」においては同類の)「匿名の威を借る過剰反応」に放火される、みたいなケースもあるんだろうけど、話題にも上らなくなれば、そのリスクも減っていく。
そういう意味でも「ルール改定」という名のパフォーマンス(あるいはやるやる詐欺)は、いろんな意味で仕掛ける側に都合がいい。
 
となると、まあ、しばらくはこの傾向、止まらんのだろうな。
甘い汁は美味しい、もっと啜っていたい、と思うのもまた、ヒトという生きものの生存戦略なので。
 
で。さて、自分はどうするか、なんだけど。
 
引っかかり、違和感は決して心地よくはないけれど、少なくとも避けた挙句に麻痺していくよりは、一旦は心地悪さとともにいよう、と思う。
 
せっかく人間を営んでいるんだから、いろんな意味で、目覚めていられるように、努めてはいたいので。