遺書、もしくは 足あと。

カノウイノリの独白です。重たい感じですみません。

「忖度」以前。「事実のひも付け」に難がある。

いっとき世間を駆け巡った「忖度」というワード。

賢げな人が必要以上に気を回しちゃって、それが当たり前…と思ってやってたら方々からディスられる、という文脈で頻出したがゆえに、揶揄のニュアンス含みですっかり市民権を得たようだが、二、三歩引いて見れば、それでも「忖度できる」というのは、それなりのスキルだと思う。

 

だって、忖度をディスりまくった人々の中にも「忖度すらできない」人は多数含まれていただろう、と思われるからだ。

 

実際突き合わせたわけではないから推論でしかないが、自分が「いやコレ忖度すら無理だわ…」と思う事象に出くわす(というか見舞われる)確率と、当時ダダ下がりした政権支持率からしても、それぞれがまるで別の棲息地域に存在するとは思えないのだ。

 

忖度すら無理。

それはどういうことなのか。

 

あくまで自分の定義ではあるが、それは

「情報・事実を単品でしか処理できない」ということである。

すでにある事実や情報とひも付けられない。1はいつまでも1のまま、「ひとかたまり」の関係を結ぶことはなく、膨大な1にあっぷあっぷしているのだろうなぁ、と思しき事態にほんとうによく遭遇するからだ。

 

よく男性の脳やら思考回路が、その作りからして単純に出来ている、てな話はよく聞くが、個人的な経験からすると、そこまで明確に性差のある話ではない。

 

むしろ性差が出るほど微妙なレベルの話ではなく、出来るか、出来ないか、という差であり、ひいては、やったことがあるか、やり慣れているか、という、経験値や習慣の差なんだろうと思っている。しかし歳を食えば何とかなるというものではないらしく、老若男女問わずやらかしてくれる、ように思う。

 

別に四六時中、隅から隅までいろいろ気づけ、とは思わない。それも正直めんどくさい。

しかし、仕事でそれを求められるであろう場面となると話は別である。

 

個人的な頻出パターンに「コールセンターへの問い合わせ」がある。

電話だろうがメールだろうが、噛み合わない時はすこぶる噛み合わない。

 

あくまで自分の場合ではあるが、正直、コールセンターにわざわざ聞くようなことは「調べがつかないこと」「個人ではどうにも解決しないこと」である。

それは提供されている情報が曖昧だったり足りなかったりする時もあるし、最近はAIが回答するような仕組みもあるが、まぁ見事なまでに人をイラッとさせる外しっぷりだったりもする。

 

そしてFAQでもAIでもダメ、となって人間を頼るのだが。これがまた…なのだ。

 

相手のビジネスを慮れば、調べろや、的なことを聞いてくるユーザーが相当数を占めるであろうことも承知しているし、難問投げてくるユーザーに回答できる人員を揃えるにはとんでもなく人件費か手間がかかるということも承知している。そして多くのコールセンター人員の定着率が低いことも、だからこそ知識も経験も浅い人を一次受付に配置しなければならない悪循環な現実があるのも、知っているつもりだ。

 

しかし、だ。

回答や解決策になるべき専門知識が足りないことでイラッとしたことはほぼ皆無なのだ。

 

ほとんどは「何を聞かれてるかわかる?」「何を答えなきゃいけないかわかってる?」と聞きたくなるような、「問いの理解」に辿り着けないディスコミュニーケーションである。

 

単純な一問一答なら、今でもある程度はAIがサッと答えてくれるか、適切なFAQのリンクを提示してくれる。

最近は、時にその素早さと提示のバリエーションに感心することすらある。

だからこそ、「人」に頼るのは、咀嚼したり統合したりして初めて「何を答えるべきか」がわかるような問いであるはずだ。そしてそれを聞き、答えるという仕事であるはずだ。本来は。

 

すっかり地位を下げた「忖度」だが、その出処で行われたことの是非はともかく、本来、不明確なオーダーや相手の潜在的なニーズを汲み取り、的確な対処を返すことが高い精度でできるのなら、それは大した能力なんだと思う。

 

そのベースには、自分の持っている情報や知識、事実と、相手の困りごとを関連づけるための「ひも付け」のスキルが不可欠なように思う。

それは別に他人に対してのみ行われるものではなく、自分自身が立てる問いに対しても同じはずである。

 

疑問を持つこと。不思議に思うこと。

もしくはわからないと気づくこと。

その問いを言語化すること。

問いについて調べてみること。

調べてもなおわからない時は、何がわからないのか明確にすること。

わからない時に「解こうとする」こと。

自分の持つ知識や、調べるなどして得た情報とひも付け、時にはより詳しい人を探し出し、何らかの答えを出すこと。

一連の事実を、ひとかたまりにひも付けること。

 

それは、人が「知恵」をつける時、ある程度は普通に行われるいとなみのような気がするのだが。

 

発達なり学習なりというものも、それが身体の動作に置き換わっていることはあるかもしれないが、その根底にあるものは大して違わないのではないか。

できないという認知、やろうとする意欲や粘り、トライ&エラー、そして達成によって確認、強化される「一連の流れ」の習得。

 

例えば先のコールセンターでイラッとするのは「まず相手の聞きたいことを理解するのがおたくのミッションでは?」という前提があるからだが、さらに掘り下げれば「仕事で求められることを理解していないと仕事ってマトモに務まらないのでは?」もあるように思う。

 

もちろん、それはお前の勝手な前提だと言われてしまえばそれまでである。

それでもやはり、自らに問いを立てずに日々を過ごしていくことは「人らしい」いとなみなのか、という点において、疑問は残る。

特に、AIが下手くそながらも、そこそこいろいろ答えてくれるこのご時世、なおさらその感を強くしている。

 

AIに仕事を奪われる。どうすれば…?

 

それ以前に、自らに立てるべき問いがあるのではないか。

 

日々、自分が行っていることは「仕事」なのか。

「仕事」とは何か?

 

問いの「センス」だって、おそらく日々のいとなみの中で磨かれていくに違いない、と思う。