遺書、もしくは 足あと。

カノウイノリの独白です。重たい感じですみません。

「無意識」という名のナイフ。

久方ぶりの更新。

別に残さなきゃならんと思うことはそう多くはないので。その上本人、他者からの承認欲求もかなり薄めなのでほんとに「字」しかないという挑みっぷり。「読めるもんなら読んでみろ」になってることは重々承知、なのだけれど。

 

というわけで、これはさすがに残しとこうと久々に強く思ったので記してみる。

 

久々に「ヘトヘト」になった。疲れたのは身体のような気もするが、発端は心情的なことと、それにまつわる出来事からである。

いちおうまだ給与生活者の端くれとして生きてはいるが、今のところ無期雇用を望むに値しない環境に擦り寄る気もなく有期雇用の身で生活してはいる。別にそうでなかった時期も(大して長くはないが)あるので、身分で見えるものが違うわけではない、とは思っている。

 

実際、経験にモノ言わせる人はいるし、(良かれ悪しかれ)それが極端だと、世間のリアクションもデカイので、それが人生観とか人間観としてまかり通っていることはよくあるが、最近しみじみ、そんなことはどうでもいい気がしている。

 

たとえば、恋愛マスターみたいな扱いをされる(あるいは自称する)、恋愛経験豊富な人の経験値は、ほぼほぼ度重なる失敗の産物であるサンプル数の多さであり、自身および相手のこらえ性のなさかもしれない。別に恋愛=耐えるものだとは思っちゃいないけれど、他人と普段の人間関係よりもずいぶんと距離感詰めた関係を持つ中で、何もかもが一致すること自体、ほぼありえないわけで、遺伝子の型の話を例に取るまでもなく、その「違い」に惹かれたりするから成立するのであれば尚更、反転すれば即「違和感」にもなろう。ならそこを乗り越えるだけのストレス耐性やら、軟着陸させるスキルも必要とされるはずだけれど、それを上手いことやり遂げてる人の話は「結婚生活」カテゴリーに寄せられてしまい、恋愛カテゴリーに残ってクローズアップされるのは「累々と屍を築いた武勇伝」とそこから得られた教訓みたいな話になっていることも多い、気がする。

 

しかし。

「失敗から学んでない」からそんなに数重ねてるんじゃないのかしら。そこからの教訓と言われても、そもそも学習能力低くない?…という素朴な疑問の入る余地もないほど、世間では「経験者が語る」ことの説得力を是とする空気があるように思える。

そうじゃなきゃ、失敗事例の相談を数限りなく受けてきた的な、自身の経験がまるで顔を出さない「他人の褌」パターンかな、と。

いずれにしても「数は力」で、かつそれをウリにしてることには変わりない。それがなくても成立するのは「但しレアなブランドに限る」ではなかろうか。

 

ただ、これは別に恋愛に限った話でない。…と、最近仕事でも、それこそヘトヘトになるほど実感した。

自分も少なからず影響を受ける、とある方針決定について、自部署の責任者(ではあるが直接の当事者でない)がまるで「成す術なし」と白旗掲げながら、むしろがっつり当事者の自分に話を持ってきた。結論は受けたものの、やっぱり経緯がようわからん状態ゆえ「ちょっと待て、解せん。話の出処と直接話させろ」と、そのテーブルを設けてもらいはしたのだが。

あちらは「波風立てる」側、こちらは「波をかぶる」側、として事情説明を求めた場である、という前提で始まったはず、だった、と少なくとも思っているし、客観的にはそのはずである。

 

組織全体、また過去の歴史からしても、前代未聞とまではいかない話ではあるものの、こちらとしては決して小さくない不都合を飲まされる事柄である。しかしその方針決定の当事者から出てきたのは主に「俺すげーがんばってる、オメーに言われなくてもわかってる」アピールと、「プロセスに不足があるのはわかってる。けど、今までやってこなかったんだから仕方ねぇ」という開き直りを、極めて丁寧な雰囲気を取り繕った体の話だった。

 

え?

なにこれ?

 

確かに組織としての答えがないならオメーがそこに携わってるひとりの人としてどう考えてんのか、とは言いましたよ。

 

いや、でも。

オメーが出した波風で津波被害が出るって話だよ、これ。

言ってみたら潮力発電施設の所長が津波被害の出た(上に、まだ2次被害も出るかもと思ってる)住民に開く説明会ですよ。

 

そこで「俺もさんざん経験してきた」?

「けど指摘の件に限って言えば、前例のないことだからちゃんとできてなくても仕方ない」?

 

…はぁ?

 

誠心誠意モードで話しているらしいのだけれど、「わざわざ所長が出向いて説明してやってんだ」感が漏れ出てたり、「電力会社のトップのコメントで何もかもカバーできないとしても、いつも雑なんだよ」と言えば「あのお方はめっちゃ気にしぃな人なので、ほんとに一言一句気をつけてギリギリまで調整してる」とか、いけしゃあしゃあと抜かしてくる。

 

いや、その割にはヨタ話(主に自慢)のニュースレターの本人原稿には、人種差別とか軽く入ってましたよ?それが気にしぃのすることですかね?と問えば「それは周りが気づいて修正しなきゃいけないことですね」と。

「でも何を思って何を思わないかは当人の問題でしょ」とは言ったけど、まぁどこを「すげーがんばってる」のか、底が知れるにはじゅうぶんすぎるやり取りではあった。

 

そして予定の時間をたぶん大幅に過ぎたというか、向こうが想定しているギリギリの時間まで使って話は終わった(場の性格上、こっちが終わらせた)が、恐らくそれだけの時間と労力の割に、あちらからの話は前述の通り論点がズレたおし、こちらの話や意図は「ほぼ何も伝わらなかった」のだと思う。

 

終盤に「所長の計画について“寝耳に水”の現場係員もどうかと思うが、別に現場にコンセンサス取って進めてもないから、現場責めても「無意識すぎて」ポカーン、って話っしょ。常識的にはヒドイと思うが別に現場だけが悪いとは思ってない。その状態も含めて所長の方針の産物で、とても無関係とは思わねぇからこの場で言っとく」てなことを話したのだけれど、キモは何も伝わってないというか、受け止められるような意識を持ってないんだろうなぁ、と思った。

 

手前勝手な曲解や忖度にすり替えられつつあるけど、「相手の真意・心情を“汲み取る”」という言い回しがある。これは言い得て妙だと思う。汲み取る、という意識を問うているんだろうな、と。

 

あくまで個人的な経験に基く実感だが、基本的に、自分のエネルギーをムダ使いする羽目に陥るコミュニケーションは、ことごとく「無意識」の部分に問い掛けて答えが返ってこないことに起因する。

 

そしてそれはだいたい、相手の方が場数踏んでるように見える相手との間で起こる。シロウトの自分の意識にのぼっている程度のことなんだから、当然わかってんだろうと思ってコミュニケーションを始めるものの、実は相手が「無意識」で、「無意識」だからこそ、本人も「気づいてない」ことがわからない。当然こちらの問いの意図は汲み取れるはずもなく、でも問いには答えようと持てる専門分野の知識と経験を持ち込んでくるので「まるで無意識なんだ」と気づくまでに結構な時間と労力を要する。

 

個人に関することだけなら、まぁ少しは慣れてきたので深手を負わずに済むことも増えてはきているが、一個連隊で連座していく、その真因が組織や属性に根差している「無意識」には、なかなか太刀打ち出来ず、結果的に疲労困憊、ということしばしばである。

ただ「時間と労力」だけがムダ使いされるならまだマシで、組織単位でこれが起こると、日々現場を殺すんだな。しかも双方の当事者がまるで気づかないうちに。…と、今回、心底実感した。

 

もちろん自分が相手を疲労困憊させるリスクはある。専門バカという言葉もあるが、それ以前の「見えない当たり前」にどっぷり浸かってしまうリスクは誰にでもあって、それが閉じた世界だと「常識」としてがっちり共有されてしまい、なおのこと起こりやすい、というだけの話だと思う。

 

「無意識」が殺す相手は、他人だけではない。それは自分の性格構造や自我でも言われている話だけれど、そこまで物騒な言い方はしないから気がついていなかったし、自我は自分の行き過ぎた防衛の産物なので、なだめすかしてお休みしてもらうとか、あたたかく受け止めてあげる、という心構えを学ぶ文脈になりがちでもある。それはそれで正しいと思う。

 

けれど「無意識はナイフである」ということは、どこかでわかっておいた方がいいな、と感じた。それこそ気づかないうちに人も自分も殺してしまうことがあるものなんだと。しかも、気づくことでしか鞘に納められないかなり物騒な。

だからこそ、せめて、自分がどれだけ隠し持ってるのか、その数すらわからないが、相当数のナイフをぶら下げて日々生きているんだということぐらいは意識しておこう、という教訓を得た。

 

まぁこれも失敗の産物から来た「経験値」だろ、と言われりゃそうだけど。