遺書、もしくは 足あと。

カノウイノリの独白です。重たい感じですみません。

「エラい人は大抵、謝り下手」問題。

具体例なんか挙げなくても、何年経っても、その時々の「あー、ヤツのことね」が想起される人が出続けるんだろう。

 

「社会的にそこそこノシてるエラい人」が「誤りを認めたり正したりできない」、「ごめんなさいもマトモに出来ない」はデフォルトか?という勢いでよくあることだ。

 

そういう人々とて、間違いなく少年少女だった時代はあり、エラくなかった頃もあったはずである。

もし優等生だったから謝ったことなんてありませんから、とでも言う面の皮の厚い御仁だとしても、誰かしらが「ごめんなさい」する場面に居合わせたことくらいはあると思うのだ。

 

なら、いつ「ああなっちゃう」のか。

 

実は、個人的には謝罪の言葉は「どうでもいい」派である。そんな派閥はないかもしれんが。

起こったことを取り消せないなら、謝罪くらいじゃ帳消しにならんし、だったらせめて未来に向かって修正して帳尻合わせてくれ、が、基本スタンス。

下手すれば謝罪がパフォーマンスって人すらいるので、口はどうにも信用ならんが、行動、それも長期にわたって実効性のある行動なら、少なくともかけたカロリーか、その成果の分だけは信用できる、と思っている。

 

で、思うに「エラい人」が上手いこと謝れないのも、結局、己の役割を履き違えたままポジションだけエラくなってふんぞり返ったまま、ロクな行動も起こさず時を浪費した結果じゃなかろうか、と。

 

この手の「謝り下手」に、立場上謝ると負け、てな思想かと思しき人をしばしば見かけるが、それこそ、勘違いもええ加減にしなはれ、と思ってしまう。

 

普通、人がエラくなるに従って「あんたはボンクラですね」と言ってくれる人は減る。だからこそ、自らの修正能力が問われるし、その前提として、自分を客観視する能力や方法を身につけてないと、遅かれ早かれ自らを担いでくれてる下々を路頭に迷わせる。

 

しかしなぁ。本来エラくなっちゃいかん人が、ある特定のポジションにおさまるだけでエラくなっちゃったりする仕組みも、ままあるのだ。それはもうあちこちに。明らかに人望なさそうで能力も微妙なのに名刺もらって肩書にびっくりする、なんてそう珍しいことでもない。

 

そして、うっかり下々がそこそこ優秀だったりすると、エラい人が「エラい人寿命」をどんどん延ばしてって、何ならそのまま一生終えたりすることさえある。

 

優秀な下々にしても、本来、実務能力の優秀さと、やってることの真っ当さは、ある程度は両輪で回ってきただろうに、「エラくなる」「エラくいられる」仕組み自体がへなちょこだと、その枠に身体を合わせて生き長らえようとする性もあるらしく、そうなると自浄作用なんて働くわけもない。下々とはいえ、その中にヒエラルキーもあって、やっぱり「下々の中でもエラくいたい」とか「今の生活を守りたい」てなことが優先されてしまうのかもしれない。

なんだかんだ言って、皆、足下のことに必死なのだろう。それは小市民としてはよくわかる。

 

しかし、である。

その組織の論理や構造に組み込まれていない外野からすれば、やっぱりへなちょこはへなちょこにしか見えない。「裸の王様」の童話そのままの光景だ。

世間から隠されている間は生き長らえることもできるかもしれないが、所詮は砂上のへなちょこ楼閣である。いつかは音を立てて崩れ落ち、その音で周りに気づかれ、白日の下に晒される。

 

それでも「謝り下手に出来上がったエラい人々」の無様さ加減を見かけるにつけ、「エラくいられる」魔法の杖は手放しづらいものらしい。

 

 その魔法の杖なり蜜の味なりが、たとえへなちょこであっても結構な繁殖力で蔓延ったり機能すること、決して絶えてなくならないことからすれば、別にエラい人でなくとも、それを「万能だ」「美味い」と感じてしまうのは、人が等しく持っている性のような気もする。

 

だから、何かの不祥事が起これば、さもまるで知らなかったような顔で糾弾する輩が湧いて出るのにも違和感がある。

 

いやいや、こんなの現場は絶対わかってたって。今クソ忙しいフリして対応に追われてるポジションの人間も、揃って今の今まで目を瞑ってただけだから。

糾弾してる側だって、実際そんなに勤勉か?もし勤勉だと言い切れるとしたら、誰かの実務能力におんぶに抱っこだから気づいてないだけじゃ?と思うことはしょっちゅうだ。

 

なに幻想に浸ってるんだろう、普通に一市民やってたらそんな世界の端々に触れる日々のはずなのに。

 

それでも報道なんかは追求することが仕事だ、と言うのかもしれない。もちろん伝えること自体の意味は大いにあるだろう。しかし「どう伝えるか」に自らのスタンスは透けて見える。

 

自らの食い扶持守るためにゲスな「なんちゃって正義」を掲げてる方が、同じく目を瞑ってる視聴者やら読者にウケるからじゃないの?

「生活守るために奇妙な仕組みに絡め取られてる」ことにおいて、この不祥事の現場の下々と何が違うのかね、と思う時は多い。ほんとうに多い。

 

だからまあ、起こるべくして起こっているのなら、どう気づいて修正するかしかなくて、目の瞑り具合が固ければ固いほど、その時間が長ければ長いほど、気づきイベントがド派手なだけだと思うのだ。そのきっかけがしばしば内部告発だったりするのも、自浄作用が働かないなら、ということなんだろう。

 

それにつけても麻痺したエラい人は現実に向き合えなかったりする。

つい先日も、立場上はエラい人の、エラそーな応対に接することができた。

 

簡単に言えば、とある案件で、対応窓口だったアウトソーシング先が、契約を終了していたことがどこにも周知されておらず、案内を頼りに旧窓口に連絡したら、そこのスタッフも終了してることを知らずに受け付けてしまい、事情に気づいた代表が無様な対応を見せた、というだけの話だったのだが。

まあアウトソーシングの依頼元が責任持って関係各位に連絡してないこと自体がそもそも悪いのだが、受ける側の代表も自分とこの部下にぐらい申し送っとけ、と思うわけで。

 

で、その事情がわかるまでに一週間を要した。当然その間、仕事は滞ってたわけだし、お門違いであれば最初に相談の電話入れた時点で断ってくれりゃいいのに、随分感じのいいスタッフが受けてくれたし、メールも送れと言われたので送ったのだが、後日、別のスタッフだったのか、ぶっきらぼうかつ要領を得ない対応になり、挙句の果てには対応案件でないから情報を横流ししたぐらいの勢いの返答をしてくるからちょっと待て、と。スタッフじゃようわからんのはわかったから、ならわかってる代表から連絡くれと頼んでおいたら、よその事務所に連絡しろ、とだけメールが来た。

 

あん?

 

いや、窓口ここだって話だよ。おたくのスタッフが愛想よくかつ頼もしい感じでメール送って来い言うたよ。何それ?案件ごとに窓口分けてんの?理由がわからんけど、どおゆうこと?

 

そして電話したら代表が渋々出てきて「案件が違うってこと?」と聞いたら「窓口が違うということ。それ以上は言えん」と。はぁ、そんなもんなんかね、まぁ接客中断されとるしな、と思いつつ、「エラそうかつ残念」臭がプンプンする声に、期待薄なのは明白だったので、さっさと話を終えた。

 

ところが、ある意味それが功を奏した。逆に言えば代表の虚勢が「あっさりバレる」ことになったのである。

 

電話を切ってから、あ、でもだったらあのメール、さすがに処分してもらわにゃいかんわ、言い忘れた、と思い、メールしたら、「いついつからこの窓口ではなくなりました。新しい窓口をご確認の上そちらへ」的な自動返信が届いたのだ。

そこには新しい窓口の連絡先は全く記されちゃいない。

 

ああ、干されたのね。

そして自分とこのスタッフにも言ってなかったのね。だから昨日今日で慌ててこのリプライこさえたのね。

さすがにその落ち度はあるからこの前寄越した返信には連絡先添えてきたわけだ。

つまり干されて以降、誰もこの窓口に連絡してなかったのね。しかも、過去もロクに使われてなかったけど定期収入だけは入ってたのね、きっと。

 

何が「それ以上は(回答できん)」だ。

さも契約上の機微に抵触するような物言いしやがって。

ただの周知ミスだろうよ。てか、てめーのスタッフに伝わってないのは完全にてめーのミスなのに、それをさも元依頼先の周知不徹底を悪く言う気はありませんから言いません的なスタンスにすり替えんじゃねーよ。と。

 

この手の輩は久々に見た。しかし各種の「先生」業には割と普通に生息している。と、経験上思っている。

「先生」と呼ばれた瞬間からあの人々は先生であって「エラい人」扱いなので、そこに違和感を感じることなんてないのかもしれない。たとえ世襲的なことがあっにせよ、なる気があるからなってるんだろうし、やってるんだろうし。

 

自分も「先生」と言われる立場には時々なるのだが、行き掛かり上、という感覚なので、やっぱり自分がエラいという立場になると居心地が悪い。麻痺しそうな感覚を自分でマトモに保つのはなかなかに骨が折れるのだ。そりゃハナから麻痺してた方がラクに決まってる。

 

しかし、ほんとうに心から「先生」と呼べる人は、やっぱり自浄能力も修正能力もちゃんと持ち合わせている。でないと本来「先生」と呼ばれる拠り所となる、何某かの優れた能力を研くことすら困難になるからだ。

 

「どんなに小さい子とだって競争だ。みんながどんどん上手くなっていくから、先生ももっと上手くならなきゃいけないと思ってがんばるんだ」

 

子どもの頃に聞いた師匠の言葉である。

自分が教える子が上達することへの誇らしさと、その伸びしろを感じ取れるだけの敏感さと、自分への振り返りを脅威ではなくモチベーションにしていたのだと思う。

子ども心にも、その時の「先生」はとてもいい顔に映った。

 

そういう「心根がマトモなエラい人」は、他人に謝る前に、自分を百万回振り返って修正を続けているように思う。だから結果として、そんなに謝らなくてもいい人生を送ってそれなりにエラくもなるんだろうし、謝る時が来ても、謝りどころと、恐らく他者への赦しどころも知っているんだと思う。

 

エラい人が謝れない、正せない問題は、社会的に「エラい」ことに価値を置いた瞬間から始まり、着々とその芽を育てて、いつか、元来持っていたはずの能力やら成長やらを止めるほどに育ちすぎて、結果自らの首を締める暴走に至るんだろうなぁ、と。

 

それはまあ無様なんだけれど、どこの世にも「王様は裸だ!」と言ってくれる無邪気な子どもはいるものである。

それが、人間という種がまだ生き長らえている救いだったり、バランスだったりなのかもしれない。

 

であれば、謝れないエラい人にも、救いの手はいつも差し伸べられているということだ。やんちゃで可愛らしい子どもの顔をして…いるかどうかはわからないが。