社会人史上最長の一斉休業がもうすぐ明ける。ほぼ何の生産的活動もせず。
「社会人として」とか「大人として」とかのもろもろの義務をスキップしすぎているが、過ぎたことは過ぎたこと。甘んじてその結果を受け入れるのみだ。(潔く、とはさすがに言わんけど)
そんな自堕落生活を経て本日現在、たどり着いた結論。
「今のところ、そこそこ生産的でいようとすれば、大多数が利便を享受してる仕組みに乗っからないと、結構めんどくさいものらしい」。
しかし。
なんだろうこの抵抗感。
最近、わりかし身近で「イノベーション」を(コンビニ各店舗の「恵方巻」売上ノルマ必達の切実さ、とかより遥かに薄っぺらい感じで)求める “他力の風” に、心底「けっ」となったが。
それでもわかりやすい「承認条件」なので、そこに乗っかってみようとする人々も生息するらしい、ということも同時に確認して心底驚いた。
あぁ、こういうことなのか。
いま厳然とある「仕組み」なり「要件」に乗っかるって、わりかし生きやすいのか、と。
物理的にも生物学的も抵抗下げるとか適応するって、まぁ言ってしまえばそういうことだから、いきものとしてのエネルギー効率や生き残り戦略としても別に不思議でもなんでもなく、むしろ真っ当かもしれない。
いやしかし。
そう考えてもなお、その「乗っかり」に感じるうすら寒さは何なんだろう。
…と思っていたら。
あぁ「長いものに巻かれる」危うさなんだ、と。
「やってくる波を受けてうまいこと乗りこなしてる」はずが、実はいつ「簀巻きにされて転がってって海の藻屑」となるかわかんねー気がするんだわ、これ。
つまり「乗り降り自由」感がないのか。
そんなわけないっしょ、と言えるのは、次の長いものに「乗り換えてる」感ある間だけなんやろな、と。
でも客観的に見て、ほんとに「乗り換えて」るのか「新たな簀巻きにされてる」かなんて区別つくんやろか?と思う。
まぁ少なくとも当の本人よりは周りの方が区別つくんかもやけど。
抵抗勢力として生きる、と誓うほどの覚悟はないが「そんなんおってもよかろ?別に」とは思う。
学生時代の先輩に、連絡手段が実家の電話か手紙しかないというヨーロッパの山奥住まいの人がいるが、それはもう抵抗もクソもなく、ハナから「乗っかる選択肢」自体がないんだろうと思う。
実際、日本で社会人やってる時から、特にそれで不便のある生活ではなかったようだし、その人からの連絡といえば、年賀状への返事の手紙くらいだが、他に比べてもよっぽど近況が丁寧に綴られているので私自身もコミュニケーション不全を感じたことはない。
でも別に世の中「乗っかる必要のある人」「乗っかる必要のない人」の二色でできているわけでもない、と思う。
重要度、恩恵享受度や頻度別のグラデーションもあろうし、好き嫌いや気のすすみ具合、みたいな心理的グラデーションもあろう。
でも「実際どんなスタンスでその仕組みやシステムに関わってるか」って、常に考えてるわけでもないんやなぁ、とも思う。
どれくらい考えてないかといえば、先日やたらと振り返っていた30年ちょっと前に、ぱっちり〝ものごころ〟がついてた世代であっても、当時の通信手段のみで今生きられる?と聞いたら、リアルなシミュレーションができないくらいに、だろうか。
YES or NOは思考停止状態でも即答できるかもしれないが。
ことの是非をどうこう言うつもりはない。ただ、自分も含めてそんなもんだろう、というだけである。
けれど、やっぱり多少は立ち止まって考えておきたいなぁと思う。
なんとなく自分の感覚かザワつくのを無視してまで乗っかる意味、ある?と。
メリットはあんまり考えなくても世の中の誰かがあちこちで教えてくれる。
けど、なんで乗っからにゃならんのか、は、個々人の中にしか答えがない。ほんとうは。
先に「クソなイノベーション風待ち」の話を挙げたが、イノベーションってヤツは、古今東西、現状をがっつり疑うとか、それを当たり前にしないってとこから始まる、と相場は決まってる。
ただ、別に「そっち狙い」でなくても、やっぱり明確にイノベーション方面を向いてなくても「空気があったまる」程度のうっすらとした不満や不安や疑問がある程度積み重なっているのだと思う、
なら、単なる意地でも食わず嫌いでもなく「おってもよかろ?」を一定数飼育しておくことも、それなりに意味があるかもしれない。
だって心がザワつくんだもの。
なんか手足が動かないんだもの。
もし、コール&レスポンスのごとく、
「長いものに巻かれてますかー?」と問いかけられて「うぇーい!」とご陽気に返せないんだとしたら。
その居心地悪い感じ、しばらくあっためといてもええんちゃう?…と、今は思っている。